このときに安倍晴明は「取り急ぎ、式神一人、参内して、状況を見て参れ」とも言っている。「式神」とは目に見えない精霊の一種のことで、式神を通じて、安倍晴明は天皇が家の前を通った事実を知ったのだという。
その後、花山天皇が本当に退位したことを知った周囲は、安倍晴明の言動にさらに注目したことだろう。
40歳の時点では「優秀な学生」にすぎなかった
安倍晴明といえば、若い美男子の陰陽師としてフィクションではしばしば描かれるが、実際には、最も活躍したのは60代後半から80代の頃だった。
それ以前の安倍晴明の様子がわかる記録はそれほど多くはないが、天徳4(960)年には、陰陽寮(おんようりょう)という、卜占、天文、暦、時刻などをつかさどる役所に勤務していたようだ。
身分としては「天文得業生」であり、気候の変異から吉凶を察知する「天文道」を学びながら、天文の観測を行っては博士に報告する、いわば特待生だった。
このとき晴明はすでに40歳だったにもかかわらず、優秀とはいえ学生にすぎなかったということである。まさか、自分が政治の行く末を左右する存在になるなど、思いもしなかったことだろう。
それから10年以上の月日が流れて、52歳~54歳の頃には天文博士となり、「天文密奏(てんもんみっそう)」という重要な職務を担当している。天文密奏とは、異常な天文現象が観測された場合に、観測記録と占星術による解釈を天皇に報告することをいう。
さらに安倍晴明は医療に携わることもあった。花山天皇が頭痛に悩まされたときは、どんな手を尽くしてもよくならないので、安倍晴明が頼りにされたようだ。晴明は、こんなふうに説明したという。
「前世のドクロが岩の狭間に落ちて挟まっています。雨が降ると岩が膨張してドクロを圧迫するので、現世でこのように痛まれるのでしょう。療治で治るはずはありません。ドクロを取り出して広い場所に置けば、おそらく平癒されるのではないでしょうか」
場所を詳しく聞いた御所の使者が、吉野山に行って探索してみたところ、確かにドクロが岩の間に挟まっていた。それを取り除いたら、花山天皇の頭痛も治ったという。
そのほか『小右記』によると、藤原道長や三条天皇も、安倍晴明を呼び出しては「招魂祭」という儀式を執り行わせて、生き霊などの物の怪を取り払うことで、病から逃れようとしていたようだ。
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