小田急線「成城」駅周辺、かつては神奈川県だった 東急の廃線「砧線」の謎から見えた意外な歴史
野川を渡った少し先の右手に鎌田一丁目公園という小さな児童公園がある。近くのバス停名は「三角公園」。敷地が三角形なので、三角公園というのが通称なのだろう。当時の地形図には何も描かれていないが、この辺りに、「1940年から1942年の間だけ伊勢宮河原という駅が存在した」(大塚さん)という。
その先の右手には東京都市大学の総合グラウンドが広がっている。このグラウンドの入り口付近に、戦前に廃止された大蔵という駅があり、砂利の採取と積み込みが行われていた。この大蔵の砂利積み込み施設について、『ありし日の玉電』(宮田道一、関田克孝著)には、次の記述がある。
「大蔵の設備は本格的なホッパー(注:じょうご型の大型の容器)で、巻き上げ機によって線路中央にエンドレスケーブルを循環させ、トロッコを曳索に引っかけて移動させていた。トロッコはケーブルで勾配を引っ張り上げられ、そこには木造の砂利貯蔵庫を兼ねた砂利積み込み台が設けられ、人力に頼ることはなかった」
さて、ここまで来れば終点まであと少しだ。二差路を右側の道(バス通り)へ進むと、やがて目の前に公園が見えてくる。この鎌田二丁目南公園および隣接する砧本村バス停(折り返しロータリー)が、かつての砧本村駅跡である。
各地で姿を消す玉電の痕跡
ここで、残念なお知らせがある。筆者は2018年の夏にも砧線跡を歩いたが、当時は砧本村駅の上屋の一部が、サイズ縮小してバス停に転用され、残されていた。しかし、今回(2024年2月)訪れるとこれがなくなり、新しい待合所が建てられていた。近年、老朽化のために撤去されてしまったらしい。
廃止後、長い年月が経過しているので仕方のないことではあるが、各地の廃線跡から、こうした遺構が少しずつ、姿を消していっている。砧線と同時に廃止された玉川線(渋谷―二子玉川間)の痕跡も、下記のように次々と消滅している。
●2014年に東急百貨店東横店東館の解体工事中に「東横のれん街」の天井板をはがすと、玉電が通った通路の遺構であるアーチ型天井が現れ話題になったが、東館解体とともに取り壊された
●渋谷駅で、かつて玉川線乗り場と連絡していた「玉川改札」が、2020年に閉鎖された
このような状況からすれば、廃線跡を巡るならば少しでも痕跡が残っているうちにと、気持ちがはやる鉄道ファンも多いはずだ。
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