お笑い芸人も騒然「吉本鎖国」騒動はなぜ起きたか 東京のライブシーンから配信事情まで分析
昨今、関西の劇場にも吉本以外の芸人は出演しているが、そのほとんどは東京を拠点とする事務所に所属している。そのため、当記事では東京のライブシーンを中心に記述しようと思う。
1994年、吉本興業は「銀座7丁目劇場」をオープンさせた。1980年代の漫才ブーム、ダウンタウンの活躍を経て、久しぶりに都内に構えた常設劇場だった。
開館当初は、アイドル的な人気を博していた関西発のお笑い×ダンスユニット・吉本印天然素材(雨上がり決死隊、バッファロー吾郎、FUJIWARA、チュパチャップス、ナインティナイン、へびいちご)が看板となって出演。東京の生え抜きである極楽とんぼやココリコらは肩身が狭く、同じ吉本でありながらバチバチの関係にあったという。
1995年に「渋谷公園通り劇場」が開場。この劇場から『今田耕司のシブヤ系うらりんご』(フジテレビ・同年9月終了)が生放送されたほか、爆笑問題、フォークダンスDE成子坂、ドランクドラゴンら吉本以外の芸人も舞台に立った。また同年にNSC東京校が開校し、関東で本格的な芸人育成が始まっている。
渋谷公園通り劇場は1998年、銀座7丁目劇場は1999年に閉館。1990年代は吉本興業が再び東京進出を図った試行期間であり、バラエティー番組では先輩相手にも奔放に振る舞う“尖った芸風”が若者から支持される時代でもあった。
同時代、吉本以外の若手は月1回の事務所ライブ、もしくはコント赤信号・渡辺正行が主催する「ラ・ママ新人コント大会」が名前を売る主戦場だった。寄席の観客は年齢層が高いため、そのほかで同世代の若者に向けてネタを披露するには元芸人が主催するライブや「新宿Fu-」「シアターD」(2016年閉館)といった数少ないお笑い専門の小劇場に出演し、お笑いライブと連動した番組『赤坂お笑いD・O・J・O』(TBSラジオ・1994年~2003年終了)のオーディションに臨むなど、自発的な行動が求められた。
交流が加速化した2000年代
2001年に東京・新宿に「ルミネtheよしもと」、2006年に東京・渋谷に「ヨシモト∞ホール」がオープン。NSC東京校の若手が次々と育つ中で、東京吉本の雰囲気も穏やかになっていったという。この件について、GAG・福井俊太郎は筆者にこう語っている。
「東京NSC9期のライスさん、しずるさん、ジューシーズさん(2015年12月解散。現在、サルゴリラ、松橋周太呂として活動)、囲碁将棋さんとか、あのあたりの方々から『一旦そういうのはやめようよ』みたいな流れが出て来たと思います。吉本内でもそれくらいから縦の関係が一気に砕けて、『みんな横で手をつないでやろう』って空気になっていったイメージですね」(2021年12月9日、FRIDAY GOLDで公開された「KOC4度決勝進出のGAG福井が語る『コント界の大変化』」より)
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