「比叡山の焼き討ち」で家臣に示した信長の"哲学" 家臣はなぜ僧兵らを恐れず戦うことができたか

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1885年(明治18年)に来日し、誕生間もない明治日本の、陸軍大学校に教官として着任したプロシア(現ドイツ)のクレメンス・メッケル少佐(陸軍)という人物がいます。

彼は日本陸軍の、指揮官の能力向上に尽くしてくれました。そのメッケルが何人かの学生(選抜された優秀な仕官)を連れて、関ヶ原の古戦場を旅行したことがありました。

東軍と西軍の配置や兵数の説明を受けると、メッケルは即座に「これは間違いなく西軍が勝っただろう」と断言した、といわれています。学生たちから「いえ、西軍は負けました」といわれても、メッケルは「ありえない」と納得しません。

地勢(高低・起伏の状態や山、川、平野の配置などからみた、その土地全体のありさま)上、西軍が敗れるはずがない、とメッケルは言います。「実は西軍には、多くの裏切り者が出たのです」と説明されて、ようやく納得したといいます。

家康の本陣を狙える場所に布陣した西軍の毛利軍1万5000の将兵は、静観したまま動かず、同じく西軍の小早川秀秋率いる1万6000の兵は東軍に寝返って、西軍を攻撃。東軍の調略による戦術で、合戦場に来る前から西軍は切り崩されていたのでした。

戦術では優れていても、きちんと運用できなければ絵に描いた餅に終わることを、関ヶ原の例はわかりやすく教えてくれます。

メッケルは言います。「よき操典で訓練された兵が、確固たる戦術にのっとって、全軍統一した意志をもって戦うなら、勝利は間違いない」。

「戦術」の力を最大化する、チーム内コミュニケーションについて、具体例とともに紹介していきます。

戦う理由をていねいに説明する

令和の時代に、「黙って俺についてこい」というタイプの上司は、もうほとんどいなくなったかと思いますが、日本史を全体的に見渡してみても、昔から多かった率先垂範型のリーダーは、その実、よほど卓越した能力がなければ使い物にはならず、優れたリーダーは部下とのコミュニケーションを上手に図って、成功に導いていることがわかります。

織田信長には、無口のイメージがあるかもしれません。実際、部下からいろいろ報告を受けても、「であるか」のひと言で済ませてしまった逸話は少なくありません。

しかし、肝心なことは何度も部下と話し、徹底して納得させるコミュニケーションを、信長は密にとっていました。ですから家臣たちは、傍目に無茶、無謀とも思える主君の合戦に、不満を言わず参加したのでした。

象徴的な例が、1571年(元亀2年)9月に織田軍が近江国(現・滋賀県)にある比叡山延暦寺を焼き討ちにした際のことです。このとき信長は、僧侶や学僧のみならず女性、子どもまで皆殺しにした、といわれています。

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