地方都市の「ファスト風景化」勝手に憂う人の病理 車なしで暮らせる都会人の「一方的な郷愁」だ
これ以前にも、「ファスト風土」とは書いていないが、郊外のチェーンストアが立ち並ぶ風景を批判したのが『<郊外>の誕生と死』を書いた小田光雄だ。小田もまた、ファミリーレストランなどを例に挙げながら、地域が均質化し、それぞれの土地の記憶がなくなることに警鐘を鳴らしている。
この2冊はファスト風土を批判した代表的な書籍だが、これ以降にもさまざまな媒体でファスト風土批判は繰り返されてきたといってよい。興味深いのは、こうした論で必ず展開されるのが「人間らしさを街に取り戻す」とか「人と人との心のつながりを取り戻す」といった言葉が語られること。特に三浦の本にはその傾向が強い。
非人間的な現在の街の姿を嘆き、人間的な過去の街を懐かしむ。そうすると、「ファスト風土」批判の完成だ。
でも、実際の郊外を見てみると…
では、なぜこうした「ファスト風土批判」を「根深い問題」だというのか。重要なのは、こうした「論者」たちが述べる郊外の姿が、現実の郊外の姿とズレてきているということだ。
私は「チェーンストアは均質な風景を作り出す」とか「郊外はつまらない」といった言説に関して、実際のフィールドワークを通して「いやいや、そんなことないでしょ」と自著で書いてきた。
例えば、1冊目の『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』では、「驚安の殿堂 ドン・キホーテ」を取り上げ、全国のドンキを訪れながら、それがいかに地域ごとに異なる姿を持っているのかを書いた。実際のドンキを訪れてみると、それぞれ売っている商品は異なるし、内装や外装もまったく違う。「ファスト風土」批判が、いかに「イメージ」で形成されてきたのかがよくわかる。
ドンキは特殊でしょ、と言う人がいるかもしれない。でも、少なくないチェーンストアで、地域に応じた品揃えや、地域に融和する外観への配慮などが行われるようになってきている。特にショッピングモールなどでは、地域ごとに入居しているテナントには相当の違いがあって、地元のインフラ企業の支店が入っていたり、地元の自動車学校の案内ブースがあったり、ローカルチェーンが入居していたりと、さまざまだ。
また、そうした郊外の風景が人間らしさを失わせてきた、という批判に関しては、むしろ、現実をみると逆の事態さえ起こっている。それが顕著に現れているのが、文化的なリソースの問題だ。
書評家として知られる三宅香帆はそのエッセイ『それを読むたび思い出す』の中で、ブックオフに対する感謝を書きつづっている。三宅の出身地である高知には大きな新刊書店がなく、さまざまなコンテンツと出会うことのできる場所の一つがブックオフだった。あるいは、ライターの藤谷千明は山口県の出身だが、そもそも新刊書店が潰れた後に、ブックオフが街にやってきたという。よく語られる「チェーンストアがやってきて個人商店がなくなった」話が、ここでは逆になっている。むしろ、ブックオフこそが一種の救世主になっていたらしい。
これだけ見ても、「ファスト風土批判者」たちの郊外に対する認識が、現実の姿と大きくズレていることがわかるだろう。では、なぜ、その認識は大きくズレているのか。言い換えると、なぜ私たちは「イメージの中の郊外像」にとらわれてしまうのだろう。
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