ゲイツ、坂本龍一…左利きには「天才」が多いのか 左利きにまつわるユニークなエピソードも

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《親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳(かざ)して、友だちに見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないといった。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ》
(夏目漱石『坊っちゃん』1906〔明治39〕年より)

主人公のモデルは同僚の教師・弘中又一とする説があるものの、「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」という一文から、主人公は左手でナイフを持っていたことが窺い知れます。

はたして漱石の利き手は左右どちらだったのでしょうか。謎は深まるばかりですが、以前から日本における左利きの偉人として紹介される文豪であることは確かです。

正岡子規──学校に弁当を持っていかなくなった理由とは

明治を代表する2人目の左利き文学者は、漱石の親友であった正岡子規。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊した同郷の友人・柳原極堂(やなぎはらきよくどう)が著(あらわ)した『友人子規』によれば、幼少期は左利きだったものの、箸や筆記具は右手で持つように矯正されたことが記されています。

柳原による子規の回顧録には「母方の祖父が左手で食事することを戒めただけでなく、学校では左手で弁当を食べると教師に注意されるため、ついには弁当を持っていかなくなってしまった」(現代語にして要約)と述べる箇所もあります。

「右手で食事ができるようになったのは後のこと」とは、子規の実母談。若き日に書き綴った『筆まかせ』に収録されている「右手左手」には、「右手でも左手でも同じようにうまく書ける」と自信を持って体験を語るだけでなく、喀血で右の肺を悪くしたため何事にも左手を使うことに苦労はなく、文字も左手で書いていると理由を言っている──そう柳原は子規の左利きを述懐していました。

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