「鰻丼」を食べる人が知らない"昔の驚きのタブー" かつて鰻飯と呼ばれ、今とは外見も中身も違う

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 “身内の者がなくなった場合には、生き残った者がこれに対して食い別れの式をする。葬送の出棺時のデタチの膳というのがそれで、一杯きりの飯を食ったり、一本箸で食ったり、わかれのおみきといって椀の蓋で酒を飲んだり、ふだんは決してしない食べ方で死者のまわりで食事をして、今まで同じ火で炊いた同じ鍋の飯を食った死者に対して、もはや共食者でないことを宣言する”
 “こういう時には一膳飯を食べたり温かい御飯におつけをかけたり一本箸で食べたりするので、常の日にそんなことをするのを嫌うのは、それが死者との絶縁のための作法だからである”(瀬川清子『食生活の歴史』)

かつての日本では、葬式の時に一杯だけご飯を食べて死者と別れるという儀式が広範囲に行われていました。そのために、普段の食事においておかわりをせずに一杯だけのご飯で済ますことは、葬式を連想させる行為として非常に忌み嫌われていたのです。

居候(いそうろう)三杯目にはそっと出し、という川柳があります。

タダ飯を食べさせてもらっている居候は肩身が狭いので、ご飯のおかわりをするにも遠慮がちになるという川柳ですが、なぜ2杯目ではなく3杯目なのかというと、2杯目は一膳飯のタブーを回避するための義務なので、堂々とおかわりすることができたからなのです。

その居候を描いたのが上方落語家林家染二の「湯屋番」ですが、居候にはなるべくご飯を食べさせない主義の大工の女房も、一膳飯はだめだというので2杯目まではおかわりを出しています。

この一膳飯がいかに強力なタブーであったかについては、民俗学の研究成果および様々な実例を拙著『牛丼の戦前史』に載せていますので、興味のある方はご覧ください。

鰻飯から鰻丼への変化

明治時代のベストセラー小説、明治36年出版の村井弦斎『食道楽』に、鰻飯の「大丼」というものが登場します。従来の小さな丼鉢入の鰻飯に加え、大きな丼に入れた鰻飯があらわれたのです。

容器が変わるとともに名称にも変化が起こります。拙著『牛丼の戦前史』では様々な資料における名称の推移を記録していますが、明治時代中頃に現れた「鰻丼」という名称は、昭和時代になると多数を占め「鰻飯」を圧倒するようになります。

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