「鰻丼」を食べる人が知らない"昔の驚きのタブー" かつて鰻飯と呼ばれ、今とは外見も中身も違う

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江戸遺跡研究会世話人代表であった寺島孝一は、次のように述べます。

“今私たちが「どんぶり」という言葉で思いうかべるような器が、発掘調査でほとんどみつかっていない”(寺島孝一『アスファルトの下の江戸』)

我々が現在鰻丼に使っているあの器「どんぶり」は、江戸時代の地層からはほとんど発掘されていない、つまり普及していなかったのです。

民俗学者の柳田國男・直江広治も、どんぶりという器および鰻丼のようなどんぶりものは、明治時代になって生まれた新しい食文化であったと観察しています。

“どんぶりといふ器が飯椀に代つて、天どん牛どん親子どんなどの奇抜な名稱が全國的になつたのも、すべてこの時代の新現象である”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)

明治8年生まれの柳田國男は、どんぶりという大きな食器、天丼や親子丼という「どんぶりもの」というジャンルが普及するさまを、リアルタイムに体験していました。

江戸時代にどんぶりものが普及しなかった理由

それではなぜ、江戸時代にはどんぶりという器およびどんぶりものが普及しなかったのでしょうか?

柳田國男はその理由を次のように説明します。

“一膳飯はもと不吉な聯想(れんそう)があつて、御幣(ごへい)を擔(かつ)ぐ者にはいやがられて居たが、もうそんな事は構ふ人がなくなつた”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)

日本にはかつて、「一膳飯」という非常に強力なタブーが存在しました。どんぶり一杯で満腹にさせる、おかわりなしの「どんぶりもの」は、一膳飯というタブーに触れる不吉な食べ物として忌み嫌われていたのです。

文明開化の明治時代になり、一膳飯のタブーという迷信から人々が解き放たれたために、どんぶりという器およびどんぶりものが普及したと、柳田國男と直江広治(『明治文化史第13巻』)は主張するのです。

一膳飯とは何か。民俗学者の瀬川清子は次のように説明します。

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