中国が圧力?インドネシア「日本の中古電車禁止」 外交弱まる中、民間が築いた信頼維持できるか
しかも、実はとある自民党の三世議員が5月、中古車両輸入反対を声高に叫び続けた最右翼であるアグス・グミワン・カルタサスミタ工業大臣に直々に面会しているのである。しかし、主な議題は先述の通りの電気自動車関連、また再生可能エネルギー分野での投資協力などだったようで、それ以外の交渉はなかった。そもそも、その議員が中古車両云々の話を知る由もなく、実情を知らないのだから交渉のしようもない。言い方は悪いが、これでは工業大臣の「金づる」になりに行ったようなものだ。
この議員の父と祖父は日本と東南アジア、特にインドネシアとの関係を取り持つ重鎮として知られる人物である。今回はこの世代交代と次世代の両国間の懸け橋になるべく、インドネシアを訪問した。当人は日本とインドネシアの関係の先細り、中国の影響に危機感を感じているとして、新たな関係構築の必要性を訴えている。しかし、この体たらくである。しかも、その突破口を、親中派と目されるジョコウィ大統領のイエスマンたるアグス大臣としたいと言うのだから外交センスを疑わざるをえない。
なぜアグス大臣を突破口にするという発言が飛び出すのかといえば、同大臣はインドネシア日本友好協会のギナンジャール・カルタサスミタ会長の息子だからである。先述の議員の父と祖父はギナンジャール氏とのつながりは深い。その関係性をそのまま下の世代に受け継がせた完全なる前例踏襲で、目新しさは何もない。
「戦後賠償」外交から脱せない日本
ギナンジャール氏が日本との関係性を持つことになったきっかけは、戦後の賠償留学生1期生として日本に留学したことである。戦後賠償の一環として東南アジア各国に賠償留学制度が創設されたが、インドネシア政府の意向で1960年~1965年にかけて同国は最多の賠償留学生送り出し国となり、その数はおよそ380人にも及んだ。
その多くは政治家や役人、軍人の息子などで、帰国後は政府の中枢を担う人物も多かった。知日家、親日家をそのように作り出すことで、当時の日本は東南アジア各国との関係性を強化していた。ギナンジャール氏もその1人で、1998年の政権崩壊まで30年以上続いたスハルト大統領の軍事政権下で政府要職を歴任した。
開発独裁と呼ばれたこの時代、日本はインドネシアに対して無敵ともいえる影響力を持っていた。しかし、民主化が進めば進むほど、現地政府へのコネクションは弱まっていくことになる。もっとも、これはインドネシアに限ったことではなく、東南アジア全体で起きている問題である。
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