信長の死で各地激震、家康が領土拡大できた背景 北条氏と徳川氏による「天正壬午の乱」が勃発
天正10年6月中旬、北条氏の当主・氏直は約2万の軍勢で、滝川一益の軍を神流川の戦いで破ると、信濃国に侵攻してきた。信濃国衆の真田昌幸や諏訪頼忠らは、北条氏に降ってしまう。
『三河物語』によると、徳川重臣・酒井忠次が、信濃国衆の懐柔のため、信濃にやってきたはよいが「信濃を私に下さるなら、諏訪頼忠も手懐けよう」と公言したため、諏訪氏は機嫌を損ね、北条氏に加勢したという。
北条氏は北信濃を制圧しようとしたが、内応を約束していた上杉方の武将(海津城代の春日信達)が処刑されたこともあり、北信濃平定を断念し、甲斐国に向けて、進軍することになる。
北条氏は、8月7日、若神子(山梨県北杜市)に着陣。信濃にいた酒井忠次・大久保忠世ら徳川家臣も甲斐に向かい、徳川本隊と合流する。
家康は、甲斐の守備を鳥居元忠らに任せて、新府(山梨県韮崎市)に移ることになる(8月10日)。2万の北条軍に対し、徳川軍は2000と劣勢であった。
北条方の武将も徳川に帰順
しかし、徳川の重臣・鳥居元忠は、黒駒(山梨県笛吹市)において、北条氏忠の軍勢を破り、300人を討ち取っている。討ち取られた北条氏の兵士らの首は、晒し首場に並べられたという。
その首は数百はあったというが、それを見た北条氏の兵士たちは「これは私の親だ」「これは私の兄」「これは兄」「甥」「従兄弟」「我が叔父」「兄弟」だと口々に泣き叫び、戦意喪失したということだ(『三河物語』)。北条氏についていた武将も、徳川に帰順するようになる。
8月から9月にかけて、木曽義昌・真田昌幸が徳川方に降る。徳川方の勢いが増し、北条方の砦が攻略されたこともあって、北条氏直はついに家康に和睦を申し入れる。信長子息の織田信雄・信孝兄弟の停戦せよとの働きかけも家康にあったという。
10月29日、和睦は成立する。北条氏が押さえていた信濃佐久郡と甲斐都留郡は徳川に割譲されることになった。上野国は北条氏のものとすることが決まり、家康の娘・督姫を北条氏直の正室にすることとなった。敵対関係から一転、両者(徳川家と北条家)の間に、婚姻を基にした同盟が結ばれることになったのだ。
天正壬午の乱は終結し、家康は元々統治していた三河・遠江・駿河に加えて、甲斐・南信濃の5カ国を領有する大大名となった。乱後もしばらく、家康は甲府にいて、甲斐・信濃の経略に努める。
本能寺の変後の混乱を家康はうまく乗り切り、大きく飛躍したと言えよう。
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