信長の死で各地激震、家康が領土拡大できた背景 北条氏と徳川氏による「天正壬午の乱」が勃発
一方で甲斐国では、一揆が蜂起していたこともあり、家康は本多忠政を派遣した。穴山氏の領土を除いた甲斐国を統治していたのは、織田家臣だった河尻秀隆だ。
河尻秀隆は、本多忠政の派遣を当初は援軍と思い、ありがたがっていたようだ。ところが、河尻秀隆は「本多忠政が一揆に乗じて、自分を討とうとしているのではないか」と疑い、本多忠政を招き寄せ、ご馳走を振る舞って、寝ているところを長刀で突き殺してしまう(『三河物語』)。
これに怒ったのが、本多忠政の家臣である。彼らは一揆を形成し、河尻秀隆を討ち取ってしまった(6月18日)。
上野国(現・群馬県)でも変動があった。同国は小田原の後北条氏がかつて支配していたことがある。その後織田家臣・滝川一益のもとにあったが、後北条氏が奪回に乗り出してきた。
滝川一益は、後北条氏の軍勢を迎え撃つも敗北し、本領の伊勢(現・三重県)に敗走することになる。
信濃国(現・長野県)でも、森長可ら織田勢は、旧領美濃に撤退。越後の上杉氏が川中島四郡(長野市)に侵攻し、同地を制圧することとなった。
かつて、織田信長は、武田家を滅亡に追い込んだ後、甲斐国(穴山氏領土以外)は河尻秀隆に、上野国は滝川一益に、信濃国の四郡は森長可に与える知行割を行ったが、信長の死により、瞬く間にそれは崩壊してしまった。
『三河物語』などを見ていると、家康は大須賀五郎左衛門尉、岡部正綱ら武田旧臣の者を使い、甲斐の争乱を抑えにかかっている。信濃国では、同国佐久郡の国衆・依田信蕃(武田旧臣)に、信州の豪族の懐柔を担当させていた。
家臣を派遣して、甲斐国・信濃国の経略を進めていた家康だが、自身も浜松から出陣(7月3日)し、同月9日には甲府に到着する。
清洲会議が開催、三法師が後継者に
さて、この約1週間ほど前には、織田氏の諸将が集まり、清洲会議(愛知県清須市)が開催され、織田信忠(信長の嫡男)の遺児・三法師が織田家の後継者に決定した。
三法師の叔父の織田信雄と織田信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興ら4人の重臣が補佐する体制ができあがったのである。家康もこの「新・織田政権」の承認を得て、甲信地方の平定を本格的に進めていくことになる。
織田氏の統治が崩壊した甲斐・信濃国などを巡って、徳川氏と北条氏が干戈を交えることになった。その争乱は「天正壬午の乱」と呼ばれる。天正10年(1582)が壬午(みずのえうま)の年に当たるからである。
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