長崎や大坂でオランダ語を学んだ諭吉は、開港したばかりの横浜へ見物に訪れます。ところが、諭吉のオランダ語は全く使い物になりませんでした。というのも、横浜に居留する外国人の多くは英語を話していたのです。「落胆している場合ではない。これからは英語の時代だ!」と奮起した諭吉は、早速英語を学び始めました。
慶應義塾を創設した諭吉も、私たちと同じ人間です。最初からパーフェクトに英語を理解できたわけではありません。特に発音が苦手だったので、外国人に英語を習った子どもが長崎から来たと聞くと、その子どもをつかまえて発音を学んだそうです。
ただ、諭吉の質問には少し意地悪なところもありました。人が読み間違えそうな場所をわざとピックアップし、わからないふりをしてその読み方を尋ねては、学者と称する先生が読み間違える様子を笑っていた、という逸話もあります。
英語上達の秘訣は、とにかく苦手な箇所をつくらないことです。諭吉がとった方法をそっくりそのまま真似する必要はありませんが、わからないことがあったら、積極的に人に聞いて疑問をなくしておくことは見習うべきかもしれませんね。
原書で授業をしたら日本語が読めなくなる生徒も
オランダ語と英語は語彙や文法の面で似ており、系統的にはどちらも西ゲルマン語群の低地ゲルマン語派に属します。横浜で購入した蘭英の会話書や辞書とにらめっこする中でそのことを知った諭吉は、英語で書かれた部分をオランダ語に翻訳しながら英語を身につけていきました。
そもそも1858年、諭吉が江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町)に設立した慶應義塾は、蘭学塾として開校したのが始まりでした。それから2年後、諭吉は勝海舟やジョン万次郎らとともに咸臨丸に乗り込み渡米。帰国後は英語と中国語の対訳の単語集『増訂華英通語』の刊行をきっかけに、慶應義塾を英学塾へと切り替えました。
諭吉が展開した英学の授業は「原書を読み、その意味を理解する」という、まさに自身が経験した方法に則ったもの。その方法で生徒の英語のスキルは確実に上達したようですが、なにぶん英語ばかり読んでいたことが仇となり、日本語の手紙が読めなくなる生徒もいたのだとか。
ノンネイティブが外国語を学ぶときには、あらかじめ土台となる母語の文法をしっかり身につけるべきだといわれています。諭吉の場合、日本語の文法を軽視したことが英学の授業の失敗につながってしまったのかもしれません。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら