地域の貨物輸送で活躍「今はなき」ミニ私鉄の軌跡 葉タバコを運んだ汽車や現在のJR線など3路線
■鶴見臨港鉄道(鶴見—扇町間など)
最後に紹介するのは、現在のJR鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道だ。朝夕に多くの通勤・通学客で混雑する鶴見線が、開業時は鶴見臨港鉄道という、埋め立て地に造成された工業地帯における貨物輸送専用の私鉄だったことは、あまり知られていないだろう。
大正から昭和の初めにかけて鶴見・川崎の地先の海では埋め立てが進められた。この埋め立て事業は、浅野セメント(現・太平洋セメントの源流の1つ)などを率いた浅野総一郎が、自ら見聞したヨーロッパの港湾施設を参考に構想したもので、現在の横浜市鶴見区の末広町・安善町、川崎市川崎区の白石町・大川町・扇町など約150万坪を造成し、京浜工業地帯発展の礎となった。
埋め立て地には浅野セメント、浅野造船所、浅野の娘婿の白石元治郎が経営する日本鋼管など浅野系企業のほか、旭硝子(現・AGC)、石川島造船所(現・IHI)、芝浦製作所(現・東芝)、富士電機、ライジングサン石油(後のシェル石油)、三井物産などが進出した。そして、この工業地帯の原料・製品の輸送動脈として、進出企業の共同出資によって設立されたのが鶴見臨港鉄道だった。
1926年、浜川崎駅―弁天橋駅間と武蔵白石駅―大川駅間の大川支線が開業。その後、本線が扇町駅まで延伸されるとともに、いくつかの支線も開通した。
鶴見臨港鉄道は、開業から数年間は旅客営業を行わず、貨物専用線として営業を続けた。京浜電鉄(現・京急電鉄)の子会社・海岸電気軌道が、ほぼ並行する路線を先行開業して旅客輸送を行っていたために、旅客営業の許可がなかなか下りなかったのである。
鶴見線の鶴見駅、なぜ西口側に?
ようやく旅客営業を開始できたのは、1930年のこと。不況の影響を受け、経営難に陥っていた海岸電軌を買収し、同線を鶴見臨港鉄道軌道線とすることで決着した。しかし、同じ会社の並行する2路線が、ともに旅客営業を行うメリットが少なかったため、軌道線は間もなく廃止された。
そして1934年、鶴見臨港鉄道は省線(国鉄)の鶴見駅への乗り入れを果たすが、この鶴見駅の位置に関して、ある疑問が湧く。路線の大半がある東口側(海側)ではなく、わざわざ巨大なトラス構造の跨線橋で京急本線とJR各線の線路を跨ぎ、西口側(山側)に乗り入れている。これは、なぜなのだろうか。
実は当時、矢向駅まで路線を延長し、矢向駅で浅野財閥系の南武鉄道(現・JR南武線)と接続して、環状線とする計画があったのだ。会社が作成した資料「鶴見臨港鉄道要覧」(1931年発行)に掲載された地図には矢向線だけでなく、浜川崎駅から大師町、羽田町などを経由し、大森に至る路線も未成線として描かれている。
鶴見臨港鉄道は、その後1943年に戦時買収により国有化され、戦後は国鉄鶴見線となった。なお、貨物鉄道としてスタートした鶴見線だが、現在の貨物輸送は、石油輸送(安善駅発)と埋め立て用の残土輸送(扇町駅着)が、わずかに残るのみとなっている。
さて、今回見た3路線は、いずれも規模は小さいながらも地域の産業発展に大きな足跡を残した。鉄道の歴史は地域の産業とも深く結びついていることが多い。
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