地域の貨物輸送で活躍「今はなき」ミニ私鉄の軌跡 葉タバコを運んだ汽車や現在のJR線など3路線
こうして、1906年8月に開業した湘南馬車鉄道であったが、予想外に利用者が少ない上に、日露戦争後の物価騰貴の影響で馬糧等の経費がかさむなど、経営は苦しかった。
だが、その後「時代の進展にともない秦野地方の産業が目覚ましく発展」(二宮町史)し、馬車鉄道では輸送が追いつかない状況となり、1913年に動力を馬力から蒸気に変更。社名も湘南軽便鉄道となった。神奈川新聞の前身・横浜貿易新報の1913年11月16日付の記事は、当時の秦野のたばこ産業が盛んな様子を伝えている。要約すると次の通りだ。
「秦野専売支局製造課では、他県より仕入れた葉煙草と秦野煙草を調合した製品を年間三十万貫(約1125トン)製造し、大阪、静岡、神奈川、愛知、東京、北海道等へ移出し、残る秦野煙草、約五十八万貫(約2175トン)は葉煙草のままで東京などの製造所に運送するので、秦野―二宮間の日々の運搬もかなりの量に上る」
馬に代わって登場した小さな蒸気機関車が、ポコスコポコスコと煙を吐きながら、タバコをはじめ、落花生、木材、肥料、木綿織物などを運んだ。また、旅客営業も、夏季の大山登山シーズンや、東京上野で開かれた大正博覧会(1914年)などのイベント・祭事のときには多くの利用者があったと当時の新聞が伝えている。
強力なライバル「小田急」開業
だが、その後第一次世界大戦による石炭価格の暴騰が経営を圧迫し、1918年には「極度の窮地に陥り、列車は殆ど運転休止の状態」(社内資料)となった。そこで当時、専売局のたばこ類の輸送を全般的に引き受けていた内国通運(現・日本通運)社長らが、輸送責任を果たすために個人出資によって新たに湘南軌道という会社を設立。湘南軽便鉄道の事業を引き継ぐことになった。
新会社となった湘南軌道は積極策に出る。それまで専売局秦野工場(現在のイオン秦野ショッピングセンター敷地)から800mほど離れた位置にあって不便だった秦野駅を工場のすぐ手前に移転し、駅から工場内に引込線を延長して荷物の積み降ろしの能率を上げた。また、松田方面、厚木・八王子方面への遠大な路線延伸計画を立てるなどした。
しかし、1923年に発生した関東大震災で甚大な被害を受けたうえに、昭和に入ると人々のたばこの嗜好が刻みたばこから米国産タバコ(ヴァージニア種)を主原料とする紙たばこに移りはじめ、秦野の葉タバコ生産は下り坂になった。また、1921年9月にはバス事業を展開する秦野乗合自動車、1927年4月には小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)というライバルが相次いで出現した。
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