地域の貨物輸送で活躍「今はなき」ミニ私鉄の軌跡 葉タバコを運んだ汽車や現在のJR線など3路線
とくに小田急開業の影響は大きく、「本春四月一日から小田原急行電車が開通し秦野町には大秦野駅が開設され京浜間の客を全部奪われ(中略)昨今は三十二人乗りの軽便列車に僅か二、三人の乗客があるのみ」(1927年10月27日付横浜貿易新報)と、目に見えて乗客が減っていった。しかも皮肉なことに、小田急のレールなど資材を運んだのは湘南軌道だったのである。結局、1933年4月以降は旅客営業を休止、1935年10月以降は貨物営業も休止した後、1937年8月に廃止となり、その31年間の歴史に幕を下ろしたのである。
筆者はこれまでに何度か湘南軌道の廃線跡を歩いたが、各駅の跡には、簡単な説明が書かれた案内板が設置されている。「付近は坂が多かったことから、客が降りて登り切れない列車を後押しするのどかな光景もみられました」(上井ノ口停留所跡)というような記述を見れば、目の前にその情景が浮かぶようである。
なお、湘南軌道の現存する唯一の遺構は、二宮駅付近の商店街の中にあり、現在は商店として使用されている湘南軌道本社建物だ。この建物はもともと2階建てだったが、惜しいことに近年、老朽化により2階部分が取り壊されてしまった。
軍需輸送のために生まれた6kmの鉄道
■上武鉄道日丹線(丹荘―西武化学前間)
「丹荘駅」と聞いて、その場所をすぐに思い浮かべられる人が、どれほどいるだろうか。JR八高線の寄居と高崎のちょうど中間付近、埼玉県児玉郡神川町に位置する無人駅である。
かつて、この丹荘駅と約6km先の神流川(かんながわ)のほとりにあった西武化学前駅(開業時は若泉駅)を結ぶ、上武鉄道日丹線という小さな鉄道が存在した。上武鉄道というと、秩父鉄道を思い浮かべる人がいるかもしれない。秩父鉄道は1901年の開業から15年間、上武鉄道として営業した後、秩父鉄道に改称している。しかし、今回紹介する上武鉄道は秩父鉄道とは別会社である。
上武鉄道の元になったのは、日本ニッケルという会社だった。現在は蓄電池などに使用されているニッケルは、戦時中には軍用艦や戦車の装甲などに使う合金(ニッケル鋼)の原料として利用された。
神流川流域の鬼石町(現在の群馬県藤岡市鬼石)の鉱山で、少量のニッケルを含む蛇紋石が採掘されたことから、日本ニッケルは神流川対岸(埼玉県側)の若泉製鋼所でニッケル鋼を生産していた。しかし、地元の採掘量だけでは足りず、京都府の大江山から鉱石を移送するなどしていた。こうした中、太平洋戦争中の1942年、「ニッケル鋼の増産のため」(『日本ニッケル鉄道』高井薫平著)に、原材料、製品輸送を担う専用鉄道として、丹荘―若泉間に開業したのが日丹線だった。
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