家康と信長が圧勝「長篠の戦い」今も残る大きな謎 「鉄砲3000挺で3段撃ち」の記述は本当なのか
この見解が広まり、大河ドラマ でもそのようなシーンが繰り返し描かれてきた(例えば、1992年の大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』)。
しかし、織田・徳川連合軍による3000挺の鉄砲による三段撃ちは、本当にあったのであろうか。比較的信用できる史料から、実態を探ってみよう。
信長に仕えた太田牛一が著した『信長公記』には、戦の直前、信長は家康の陣所がある高松山に登ったという。小高い山に登った信長は、敵の動きを見たうえで、命令が下りしだい、すぐに軍勢が動けるようにしておけと命じたようだ。
そして、鉄砲約1000挺を佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政という5人の奉行に配備。敵のほうに足軽を詰め寄らせた。
長篠合戦の前哨戦とも言うべき鳶ノ巣山(とびのすやま)砦攻めの際、信長は鉄砲500挺(『信長公記』)を酒井忠次に付けた。3000挺という鉄砲数は『信長公記』には記載されていない。
さらに『三河物語』にいたっては鉄砲数すら記されていない。武田軍の将兵が「雨脚のような鉄砲にあたって、戦死した」と記されているのみである。
甫庵『信長記』は信憑性が乏しく、太田牛一『信長公記』は比較的信用できる史料と言われていることからすると、筆者は『信長公記』の記述に重きをおきたい。
『信長公記』にも、織田・徳川連合軍の鉄砲の全体数が記されているわけではなく、総数は謎と言わざるをえないが、『信長公記』の記述を基に考えると、最低、1500挺の鉄砲を信長は戦場に持ち込んでいたことがわかる。
もちろん、ほかの部隊にも鉄砲を持たせたであろうから、1500挺より多い鉄砲が長篠に持ち込まれたであろう。ただし、それが3000挺であったか否かは確認できない。
鉄砲の3段撃ちは実際にあったのか
さて、では鉄砲の3段撃ちはどうであろうか。『信長公記』に依り、長篠合戦の流れを再現してみよう。
武田軍は、進軍の合図の推し太鼓を鳴らし、織田・徳川軍に打ち掛かってくる。1番手は、山県昌景の軍勢が来襲してきたが「鉄砲で散々にうち立てられ」退却した。
2番手は、武田逍遙軒(信廉。信玄の弟)の軍勢であったが、彼の軍勢は入れ替わり立ち替わり、攻めては退き、退いては攻めを繰り返していたという。
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