家康と信長が圧勝「長篠の戦い」今も残る大きな謎 「鉄砲3000挺で3段撃ち」の記述は本当なのか

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織田軍は、逍遙軒の軍勢に銃弾を浴びせ、軍兵の過半を討った。すると、逍遙軒の軍勢は退いていった。

3番手・西上野の小幡氏の赤武者が、馬を用いて、推し太鼓を打ちつつ、攻めてきた時も、織田方は「軍兵を揃えて身を隠し、鉄砲で待ち受けて、撃った」。小幡氏の軍勢も鉄砲により、大半が撃ち倒された。4番手の黒武者たちも、これまた織田方の鉄砲により、撃たれる。5番手の馬場信春の軍勢も同じ目に遭う。

長篠合戦は、『信長公記』によると、5月21日の日の出から午後2時頃まで続いた。武田軍は、入れ替わり立ち替わり、騎馬武者を差し向けてくるが、織田方の鉄砲により撃退されている。織田方は射撃した後に、足軽を使い、敵方を軽くあしらう程度であった。

武田軍は、多くの軍勢が討たれたこともあり、退却を始めるのだが、列が乱れたこともあり、そこを信長により突かれる。山県昌景・馬場信春など武田の重臣が討たれることになる。

以上、『信長公記』から、長篠合戦の展開を見てきたが、織田方が鉄砲の3段撃ちをしているとの記載は見られなかった。

では『三河物語』はどうであろうか。同書には「武田勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守、真田源太左衛門尉など度々の合戦で名を馳せた人々を入れかえ入れかえ、ひたすら攻めよせて、退却することもなかったが、これらの人々は雨脚のような鉄砲にあたって、その場で戦死した」とある。

『信長公記』の描写と同じく、『三河物語』にも、鉄砲3段撃ちの記述は見られない。よって、鉄砲の3段撃ちはなかったと言っていいだろう。

武田は大量の鉄砲を確保できず

武田氏も信玄以来、鉄砲の装備を推進してきたが、大量の鉄砲を確保することは難しく、銃兵の訓練もうまくいっていなかった。

武田軍が敗れたのは、鉄砲の数量の差、そして軍勢数の差、織田・徳川連合軍の兵力の実態を掴めず、力攻めをしたことによる。

その一方、織田軍は、鉄砲や弾丸・玉薬を大量に用意できていた。それは、信長が京都や堺といった畿内を押さえていたことが大きいだろう。京都や堺においては、鉄砲などを購入することは容易である。

『信長公記』によると、武田軍が戦場から退却するときにも、多くの者が討たれている。 その数は「侍・雑兵1万ほど」だったという。山に逃亡し、飢え死にした者、橋から落とされ川で溺死した者も数限りなく存在したということだ。

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