今でもこの書物は、ロシアとの関係が悪化するたびにどこかで再版されて、繰り返し読まれている。それはあたかも反ユダヤ主義をかき立てるために今でも再版される、偽書『シオン賢者の議定書』(1903年)にも似ている。
日本でも、日露戦争(1904~1905年)勃発時に、国威発揚のために『ピョートル大帝の遺書』が、紹介されていた。伊地知茂七は日露戦争の際に出版した『露西亜小史』(巌正堂、1904年)の中で、この偽書を使ってロシアという国の持つ侵略性と野蛮さを、高らかに語っていた。
この偽書は、ナポレオンがロシアを征服する口実として効果のあった書物だが、この野蛮でアジア的で侵略好きのロシアというイメージは、その後ナポレオンが敗北し、ナポレオンを追ってパリまでロシア軍がやってきたことで、より現実的なものになる。
ロシアからみたら、この戦争は祖国を救うための祖国戦争にすぎなかったのだが、西欧から見たら、野蛮なロシアが西欧を蹂躙し侵略した征服戦争のように見えたのだ。
とりわけロシアの悪しきイメージが大きな意味を持ってくるのは、ギリシア独立戦争(1821~1830年)の後、ワラキアやモルダビアをロシアが占領し、黒海沿岸でオスマントルコに変わって覇権を握り始めた1830年代以降だ。イギリスとフランスもオスマントルコの衰退の中で、バルカンの派遣を握ろうとしていたがゆえに、ロシアの南下は脅威となっていた。
マルクスも陥った思考回路
その中で、大のトルコびいきである文士でイギリスのデヴィッド・アーカートが、ロシア批判の宣伝を行ったことで、イギリスの世論は反ロシア一色にそまっていく。『ロシアとイギリス』という書物を1835年に出版し、世論に大きな影響力を持つ新聞『タイムズ』紙を味方につけ、時の首相パーマストンに対してロシア批判を、狂気のごとく繰り返したのだ。これがクリミア戦争へと、世論をかき立てる要因になったわけである。
クリミア戦争(ロシアでは東方戦争、トルコでは露土戦争)の時代、カール・マルクスはアメリカの有力紙『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』のヨーロッパ特派員という肩書で、世界情勢について健筆を振るっていた。ロシア嫌いであったマルクスは、アーカートのロシア論に飛びついた。
1848年革命が、ロシアのツァー体制の野蛮さによって敗北したことに怒りをもっていたマルクスは、アーカートと一時期懇意になる。そして彼を、半分疑いながらも、その主張を全面的に取り上げ、お決まりのロシア批判の論説を書く。
最近復刻された『一八世紀の秘密外交史』(白水社、2023)は、マルクスが、アーカートが編集していた資料集などを典拠にし、アーカートを支持していた『フリープレス』に1856年掲載した、マルクスのロシア観を知るために重要な論文である。
ジャーナリストとして鋭いマルクスも、ある意味アーカートを含む西欧的思考回路に翻弄されていた。やがてアーカートの狂気じみた部分に辟易したマルクスは、ロシアに対する見方を変えていくが、クリミア戦争の頃はやはりマルクスもワンパターンの西欧的視点に振り回されたことは間違いない。
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