そんな父親は独特の教育方針があり、國友さんはずいぶん鍛えられたという。
「子供の頃はよく親父に那須の山のてっぺんまで自転車で登らされていました。それがつらくてつらくて、いつも泣いてた記憶があります。
幼稚園児のころから、家では教育テレビではなく代わりに『太陽にほえろ!』や『探偵物語』を繰り返し見させられました。父の『ハードボイルドに生きろ!!』みたいな観念はこの頃に刷り込まれて、今も影響してるなと思います」
國友さんは、小さい頃から勉強もスポーツもできたという。部活は野球部で、将来は野球選手になりたかった。
「父と母は仲が悪く、自分が小学校4年くらいから父は働いている旅館で寝泊まりすることが多くなりました。母親も働いていたので小学校後半はずっと一人で家にいて寂しかったですね。部屋で『巨人の星』とか『キャプテン』とか昭和の野球アニメを見ながら素振りをしていました」
自分のことは、自分で決めていこう
そんな少し寂しい状況のまま中学に進学した。中学2年で両親は離婚、國友さんは姉と一緒に母親についていくことになった。
離婚の過程で母親は心を病んでしまい、いつも家で泣いていたという。
「本当に子供みたいになっちゃって。そんな母を一人家に置いて学校に行けなくて。1カ月くらい学校休んでずっと家にいて、刃物や紐を全部隠して、母親の面倒を見ていました。
このあたりから『自分のことは、自分で決めていこう』って思うようになりました」
中学時代も成績は優秀だったという。
「成績は良かったけど、先生には嫌われてました。授業はちゃんと受けないけど、テストだけできるみたいな生徒だったので。そういう子って嫌われるじゃないですか?」
そんな家庭の状況を見た母親の実家に呼び寄せられる形で埼玉県の大宮に家族で引っ越した。
國友さんは受験する高校をじっくり選ぶ時間はなく、とりあえず偏差値だけで学校を選んで受験した。
「那須から出てきた身としては、大宮はすれてるなって思いました。那須は自然豊かな観光地で、御用邸もあってという町だから、道端でゴミを捨てる人とか誰もいなかったんですよ。大宮だとみんなポイポイゴミを捨ててて……。ちょっと信じられなかったですね。
高校は偏差値65くらいの高偏差値の公立校に進学しました。将来のことを考えてちゃんといい大学に進学しようと思っていました」
高校時代も野球を続けたが、もう野球選手になろうとは思ってはいなかった。高校3年の8月で野球部を引退してからは、全力で受験勉強をした。
「家庭の状況で、私立に行くのは無理でした。でも母子家庭だと国立大学は授業料が全額免除になるんです。なので国立大学を探していると、筑波大学に芸術専門学群があるのを知りました。もともと絵を描くのは好きだったし、建築にも興味がありました。センター試験が5科目だけ。二次試験はデッサンと論文だけと比較的たやすかったので、進学先は筑波大学芸術専門学群建築デザイン領域に決めました」
埼玉から離れ、茨城県で一人暮らしになった。1年間は寮で生活しながら、学校に通った。
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