死に対する恐怖は時代を超えた人間特有のものだろう。なぜなら、どんなに科学が進歩しても死後の世界だけは解明できないからである。誰もわからない世界をあえてわかろうとするには何かを「信じる」しかない。つまり、誤解を恐れずにいうなら、信仰を前提とする宗教にとって、人間の死は格好の「商売道具」なのである。
こうした経緯を踏まえれば、教団が生き残るための道として、葬式を主たる事業とするのは当然の流れだった。それは、念仏を奨励する浄土宗や浄土真宗は当然ながら、他宗も積極的に葬儀を宗教活動に取り込んでいったことからも明らかだ。
そして、江戸時代になって幕府が、すべての国民に仏教寺院の檀家となるよう強制したことにより、寺院と葬儀は切っても切り離せない関係となったのである。
このままでいいのか?
明治に入ると政府は「神仏判然令」を出し、天皇を頂点とする神道によって国民を統率しようと試みた。その結果、祈願に相当する部分は神社の役割として切り離され、寺院は専ら葬儀や法事などの仏事を担当することになった。
現在でも、祈願を主体的に扱う寺院は存在するが、神社との競争に晒されているため、祈願一本で経営を成り立たせるのは至難の業である。したがって、日本の寺院のほとんどは檀家を対象とした仏事に頼る形になっている。
では、仏事の教義上の根拠は何なのだろうか。子どもの頃に親から「悪いことをすると地獄に落ちるよ」とか「嘘をつくと舌を抜かれるよ」などと言われた経験をお持ちの方もいると思うが、仏事の根拠となる『往生要集』の内容はそうしたものなのである。
確かに、平安末期やのちの戦国時代のように、戦乱が頻繁に発生し、法整備はなく、治安維持もままならない社会においては、「地獄に落ちませんように」という祈りは意味をなしたかもしれない。
また現代ほどに科学が進歩していない頃の僧侶は、呪術師、医師、そして大学教授を兼務する絶対的な存在だっただろう。そのような人間に「地獄に落ちるぞ」と言われれば、誰しも震え上がったに違いない。
だが、当時と比べて私たちの生活環境や価値観は大きく変化した。にもかかわらず、同じような儀式を同じように続けているのが日本の葬式仏教である。そして、境内墓地を持つ寺院の多くは、仏事を通じて安定的に布施を提供してくれる檀家を抱えているため、自分たちのやっていることが時代に合っているかどうかの検証もなされないように見える。
この「茹でガエル」状態を続けていれば、いずれは仏像や伽藍を残して日本から仏教は消え去ってしまうことにもなりかねない。この危機意識の欠如こそが日本仏教の抱える最大の問題なのである。
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