ウクライナ戦争を止められない政治家の本質 選挙で政治家を選ぶだけが民主主義ではない理由

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この研究によると人間の中に0.6%から1%ほど、こうした権威主義的人間がいるという。その数はわずかだが、それに準ずる悪意ある人間が6%から10%くらいいて、それがすぐにこうした人々に反応して独裁者の権威を高め、その力を普及させていくという。

現在の世界を見渡すと、少し前には理解できなかった好戦的な世界が出現していることに驚く。仮に、もし世界の指導者と称する人々、例えばバイデンやプーチン、ゼレンスキーらがすべてこうした悪意ある人物の一団であったとしたらどうだろう。そして今われわれは、その強烈なプロパガンダに踊らされているとしたらどうだろう。

選挙=民主主義ではない

ロバチェフスキーの研究はスターリン体制だけを対象にしたものだが、これはけっしてスターリン体制だけに限られるわけではない。かつてのトランプ現象はある意味こうした現象の1つだったのかもしれない。いや、その後のバイデンの勝利もその相似形なのかもしれない。

作家ジョージ・オーウェルの『1984年』の対象がスターリン体制だと思っていたら大間違いだ。オーウェルは近代社会が抱える問題として、あちこちでこうした狂気の統制社会が生まれることを小説の中で描いたのだ。

世界中で今、狂気のプロパガンダに覆われているのかもしれない。それを流布させているのは1人の政治家の力だけではない。その周りの多くがこの流れに乗り、プロパガンダを増幅し、起こっている事態の悪化をどんどん煽り続け、悪化を促進しているのかもしれない。

残念ながら、こうした狂気が3年にわたるコロナの下で進んだことは間違いない。国家の統制が、いまやここかしこで当然のようになり、従順な国民はその命令に粛々としたがっているという状態だ。そしてそれがむしろ美徳とされているのだ。

確かに政治家は、選挙によって住民から選ばれている。しかし、民主主義とは何年に1回しか行われない選挙だけで成り立つのではない。民主主義とは、選挙後も常に政治を監視し、政治に対して常に何かを主張する権利である。政治に対し民衆が行う社会運動の権利がそれであるが、こうした権利の1つがストライキであり、デモである。

しかも、こうしたものが法的に認められているというだけではなく、それが日々行われていることが民主主義の条件ともいえる。それがなければ、選挙が終われば独裁という「民主君主制」となりかねない。しかし、コロナ下で人々はおとなしくなってしまった。

年金改革をめぐり発生した、フランスのデモに参加したある人物の言葉が突き刺さる。「民主主義は選挙なんかではない。こうやって反対を自由に主張できるのが民主主義だ」と。これは肝に銘じるべき言葉である。今こそ、声を上げる時である。





    
   

的場 昭弘 神奈川大学 名誉教授

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まとば・あきひろ / Akihiro Matoba

1952年宮崎県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。日本を代表するマルクス研究者。著書に『超訳「資本論」』全3巻(祥伝社新書)、『一週間de資本論』(NHK出版)、『マルクスだったらこう考える』『ネオ共産主義論』(以上光文社新書)、『未完のマルクス』(平凡社)、『マルクスに誘われて』『未来のプルードン』(以上亜紀書房)、『資本主義全史』(SB新書)。訳書にカール・マルクス『新訳 共産党宣言』(作品社)、ジャック・アタリ『世界精神マルクス』(藤原書店)、『希望と絶望の世界史』、『「19世紀」でわかる世界史講義』『資本主義がわかる「20世紀」世界史』など多数。

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