バブル崩壊「総量規制」がもたらした大衝撃の記憶 いま振り返ると「住専問題」とは一体何だったのか
総量規制が報じられた当初は、メディアからは「遅すぎる」「効果は疑問」などと酷評されたが、実際は強烈な効果を発揮し、逆回転した歯車は、予想以上のスピードで回りはじめた。日銀の一気呵成の引締策とも相まって、あらゆる資産価値が雪崩を打ったように下落していき、土地バブルは崩壊した。
総量規制の抜け道だった住専
しかし、この総量規制には抜け道があった。住専(住宅金融専門会社)と農協系金融機関(農水省所管)を行政指導の対象外としたため、これら機関による迂回融資が激増して、融資残高は巨大化した。後に、その多くは不良債権化し、住専の経営悪化へとつながる。総量規制は銀行法に基づく行政指導であり、翌1991年の12月20日まで、1年9カ月間続いた。
住専が大量に引き受けた不動産向け融資は、その後、地価が下落に転じると住専への返済が滞ると同時に、資金提供元の大銀行からの返済要求も強まって、住専は進退窮まった。
住専は、個人向け住宅資金を供給するために、1970年代に生まれたノンバンクである。その後、銀行自身が住宅ローン事業に参入したため、不動産関連の法人向け融資に一段と積極的にのめり込んでいった。その積極性があだとなり、バブルが弾けてから大きな問題となった。大蔵省が1991年に行った調査によると、住専の貸付金の約4割が不良債権化していたことがわかったのだ。
西川善文(元三井住友銀行頭取)の著書『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』には、この間の事情が的確に描写されているので引用したい。
「住専(住宅金融専門会社)は、1970年代に住宅ローン需要が伸び続ける一方で、銀行は融資の審査が厳しく個人向けローンのノウハウがなかったことに対応した大蔵省の強い主導で設立されたノンバンクだ。民間銀行は出資を求められ、1971(昭和46)年から79(昭和54)年までに8つの住専が設立された。住専各社は当初こそ個人向け住宅ローンを扱っていたが、バブル時代になって銀行が個人向け住宅ローンに進出してきたため、新たにニーズが強かった法人向け不動産担保融資にのめり込んでいった。
これらが大量に焦げ付き、1995(平成7)年8月に行われた大蔵省の調査で、住専の不良債権額は後述する農林系一社を除き、全体で6兆4000億円にのぼるとされた。融資された額が突出して多い末野興産の末野謙一氏、桃源社の佐々木吉之助氏といった『住専借金王』たちがマスコミで話題になった」
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