バブル崩壊「総量規制」がもたらした大衝撃の記憶 いま振り返ると「住専問題」とは一体何だったのか
一方、わが国では、住専の不良債権問題の解決は遅々として進まなかった。その対応に奔走したのが、大蔵事務次官・篠沢恭助である。
篠沢は最初、親会社である金融機関の資金援助で解決する方向で調整を試みた。同時に当時の銀行局長・西村吉正も、銀行や農協の損失分担を仕切ろうと努力した。西村は週末に、門前仲町の自宅に部下を集め、夜遅くまで議論を重ねていたという。
大蔵事務次官の辞任劇
しかし結局は、6850億円の公的資金を注入して処理することになり、大蔵省は批判を浴びて火だるまになった。当時の武村正義大蔵大臣は、この住専への公的資金投入や一連の「大蔵スキャンダル」に激怒し、銀行局長の西村吉正の首を切るよう、篠沢次官に迫った。篠沢は西村をかばい、次のように擁護した。
「西村は大変有能です。彼がいなくなると、銀行局が機能不全に陥る可能性が大です。さらには、国会答弁にも支障をきたすだけでなく、年明けの国会審議も乗り越えられないかもしれません」
武村は、所属していた新党さきがけ内部からの突き上げもあり、篠沢の言葉には首を縦に振らなかった。そこで篠沢は、自らの退任を決意する。武村大臣は、1995年12月29日に篠沢次官の辞任を発表し、篠沢は、翌年1月5日付で退任した。当時としては、歴代の大蔵次官として最短となる在任7カ月での辞任劇だった。
篠沢が立派だったのは、この間の事情を西村局長には一切伏せていたことだ。そのときのことが、日経新聞(菅野幹雄 西村の「追想録」)に、次のように書かれている。
「篠沢次官辞任決定直後の95年暮れ、『事務次官が引責辞任しましたが……』と登庁時に(西村局長に)問いかけると、『えっ?』と絶句した。動揺で手が震え、局長室の鍵がしばらく開けられなかった」
篠沢は、そのように西村本人には何も告げず、自ら責任をとった。筆者も、篠沢とは何度か食事を共にしたことがあるが、話の節々に男気を感じたものだ。見事な日本男児といえる官僚だった。
結局、住専の不良資産は国策として、国民の血税で補塡され幕を閉じた。住専問題で苦労した土田銀行局長は、その後、国税庁長官になり、退官後は、東証理事長に就任したが、銀行局長時代のあまりにも大きなストレスが災いしてか、60代半ばという若さで急逝している。
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