22年続けた政治塾も休止「小沢一郎」壊し屋の落日 衆院在職53年も、ますます失われていく存在感

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さらに、1994年4月の細川氏の退陣を受けて、盟友の羽田氏を後継に擁立したが、連立を組んでいた社会党(現社民党)の離脱で少数与党となり、わずか64日間で羽田内閣は命脈が尽きて、自民が政権復帰のため「自社さ連立」の村山富市内閣を誕生させ、小沢氏は初めて野党に追いやられた。

小沢氏はその後、1994年12月に共産党を除く野党議員を糾合して巨大野党・新進党を結成、幹事長として采配を振るった。しかし、またもや小沢氏の強引な分党と新党結成で新進党は崩壊、そのころから「政界の壊し屋」の異名が定着した。

その後、小沢氏は1998年に自由党を結成して党首となり、当時の小渕恵三政権との連立を画策、1999年1月に「自自連立政権」を発足させ、5年ぶりに与党に復帰。しかし、同年10月に小渕首相が公明党も連立与党に加えたことをきっかけに、自由党も分裂、連立維持をめぐる2000年4月の小渕・小沢会談も決裂、自自公連立は崩壊した。

小渕首相その際の心労で脳梗塞を発症、いわゆる「密室の5人組」の協議を経て森喜朗内閣が誕生し、小渕氏はその直後の5月14日に死去した。

民主党との合流に先立って「小沢政治塾」を発足

2000年6月には森政権下で衆院選が実施され、小沢氏率いる自由党は善戦したが、新たに政権交代を目指す当時の民主党に大きく及ばず、党勢が低迷したまま小沢氏は2002年に民主党との合流に踏み切った。これに先立ち2001年に発足させたのが「小沢一郎政治塾」だった

小沢氏は民主党合流後も実力者ぶりを発揮、一時は代表も務めて選挙対策を仕切り、政権交代選挙と呼ばれた2009年8月衆院選で民主党の300議席獲得に貢献、二度目の非自民政権実現の立役者となった。

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