【後編】優しさを拒絶する7歳彼女の心のケア 「障がい児」だと間違われるのはなぜなのか
彼女らにとって、人に頼る、やさしくされる、などは贅沢なことなのだ。
自分は愛されるのに値しない、という著しく低い自己評価が原因である(自己肯定感が極端に乏しい)。誰にでも、人からの親切を謙遜する気持ちはあるが、被虐待児はこれが極端に強い。だから、人からの愛情は受けとってはいけないし、これを受けとる価値が自分にはないと思っている。
これが人生初期に心に刻まれた「傷」である。被虐待児が人からのやさしさを「拒絶」する心理についての推測は、以上のようになる。
ここまでの説明で、穂乃果さんの行動を「試し行為」ではないのかと思った方も少なくないかもしれない。
「試し行為」とは、「わざと悪いことをして大人(養育者)の気を引く行動」「自分にどれくらいの愛情があるのかを探る行動」として一般的に理解されている。そして、親との愛着関係が不十分だった子どもに起こりやすいとされている。
しかし、やはり被虐待児の視点に立つと、これも彼らの心理をやや誤解しているように感じる。なぜなら、子どもが愛着障害を抱えるような虐待家庭では、そもそも親と子の情緒的つながりが途絶されているからだ。
被虐待児に親を試すほどの余裕はない
子どもの側からすると、親を試す(試してどんな反応を親が示すかを考えられる)ほどの余裕はないはずだ。子ども側には、親が安心で安全な存在であるという心的表象が備わっていない。親の機嫌を損ねることをしたら、殴られるか、罵られるか、家から締めだされるか、食事を与えられなくなるなど、いいことはひとつも起きない。被虐待児は、それをよく知っている。
だからこのネーミングと解釈は、本質を射ていないようにも思える。
「試したら」虐待はもっとひどくなる。それが彼らの経験である。
再び、穂乃果さんの学校での様子に話を戻そう。
彼女の家庭での様子を考慮すると、「仲間に入れて」「一緒に遊ぼう」と言うことを教わっていないのだろう。だから、お友達のつくり方がわからない。
けれども、仲間外れは嫌だから、ふわふわとクラスメートの近くを漂うだけになってしまう。当然、勉強をする意味も理由も教わっていないだろうから、なぜ勉強をするのかも知らない。テストで0点だろうが100点だろうが、親は関心がない。勉強をがんばるように言われたこともない。
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