母の失踪で4人の弟の面倒を見る高3女子の選択 ヤングケアラーがSOSを出せるようになるには
友だちがみな通っている学校に通えないことについて大谷さんが親に問いたださなかったことは、〝空気を読んで〞ということなのかもしれない。空気を読むということは親を気遣う(ケア)ということだ。
さて、ここで注目すべきなのは、大谷さんは日常生活の延長線上で、自然に遊び場として、こどもの里に通い始めていることだ。なぜ私が「軽く、本当に遊びに来ようと思って?」と尋ねたのかというと、困窮した子どもへの支援という文脈でこどもの里とつながったわけではないという事実に驚いたからだった。
学校に通えないことも当たり前
学校に通えないことも不安定な生活も、彼女にとっては当たり前のものであり、とりたてて困難として意識されていたわけではないようだ。あくまで「どんなとこかな」という好奇心でこどもの里を訪れて、「面白いな」という楽しさから自然に馴染んでいる。つまり貧困や子ども支援といった文脈とは関係がない、シンプルに子どもにとって楽しい場所として、大谷さんはこどもの里と出会っているのだ。
困難な状況を自覚してSOSを出すよりも前に、もともと子どもが自然に行ける遊び場や居場所があることは、大きな意味を持つだろう。居場所がまずあって、その居場所が子どものニーズをキャッチしてサポートに動く。誰が困難を抱えているのか、誰がヤングケアラーなのか、あらかじめ知ることはできない。
「貧困」や「障害」といったくくりをすることなく、誰もが安心して遊べる魅力的でユニバーサルな場所があって、その場所で大人が何らかのニーズや潜在的なSOSをキャッチしたときにサポートするという構図が重要である。
例えば拙著で登場しているかつてのヤングケアラーAさんも母が覚醒剤を使い始めるより前から、こどもの里を利用していたことが、その後のサポートをスムーズにした。同じく20代の今も家族のケアを続けるけいたさんは、子どもの頃から西成区にある児童館「社会福祉法人今池こどもの家」に通っていたがゆえに、母が倒れたときに頼ることができた。
こうした構図によって、子どもが抱えている困難が発見される。そしてそのような場所は学校だけでなく、地域に複数あったほうがよい。選択肢が多いほうがセーフティネットとなる。
島根県と滋賀県で子ども食堂の調査をしている佐藤桃子は、子ども食堂を貧困対策として限定することのマイナスを指摘する。
しかし、子ども食堂を「貧困対策」と限定してしまうことは、地域の可能性を狭めることにつながる。子ども食堂の広がりは、貧困家庭の子どもたちに食料を供給するというよりも、地域社会で子どもたちの問題を共有しようと働きかける意味合いを強くもっていることが、全国の多くの実践からわかっている。
子どもに限らず多世代の人が集まって食事をする、交流の場として機能している食堂がたくさんあるのだ(佐藤桃子「仕切りを外すつながりづくり――地域の子ども食堂と学習支援の取り組みから」<村上靖彦編著『すき間の子ども、すき間の支援 一人ひとりの「語り」と経験の可視化』明石書店、221、125頁>)。
裏返すと、誰もが集まる「交流の場所」であるからこそ貧困の子どもも気兼ねなく集うことができるのであり、そこで信頼するスタッフに困りごとも明かすことができるのだ。困難を抱えた子どもも集いやすくなり、すき間に追いやられがちな語られない困難をキャッチすることができる。
大谷さん:家事は、母が、本当、作るのもしんどい。
村上:そうなりそうですよね。
大谷さん:部屋もすっごい汚くて、部屋も片付けられへん。
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