母の失踪で4人の弟の面倒を見る高3女子の選択 ヤングケアラーがSOSを出せるようになるには

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「いつでも、誰でも、おいで」な場所

ここまで、ヤングケアラーとしての大谷さんを見てきた。ここでインタビューの冒頭へと戻りたい。

大谷さん:当時の自分にとっての〔こどもの〕里は、もうほんまに居場所というか、安心、安全な場所、やったなと思いますね。楽しかったですしね。親がいなくても、スタッフがいてくれたり、シスターがおってくれたりとかしてたし、仲間はすごいいたので、実家みたいなものです。
大谷さん:ほんま原点ですね。里なかったら、今、何してるか分からないですしね、家族みんな。生きてるか、死んでるかも分からへんし、大阪にいてるかどうかも全然分からないので。

大谷さんの人生に大きく影響しているのは、過酷な生活環境を支えるこどもの里と荘保さんの存在である。そして、荘保さんたちのサポートが、ヤングケアラーとは異なる文脈で、すでに生まれていることが重要な点だ。

インタビューは何も内容を指定していないのに、こどもの里についての話から始まった。

村上:どこからでも、話しやすいところから。
大谷さん:里との出会いは、〔1980年に今の場所で〕こどもの里が開館した直後ぐらいです。〔……〕偶然、親と買い物行ってるときにこの前を通ったら、シスター谷、前館長が前に立ってらして、「またいつでも遊びにおいでね」って声掛けてくれたので、その何日か後ぐらいに、もう1回探してというか、『この辺かな』と思って、弟と友だちを連れて遊びに来たのが最初です。
村上:その探してって、わざわざ探して来ようと。
大谷さん:〔……〕もう一回遊びに来ました、わざわざ。子どもの遊び場っていうふうに、そのときもシスターがおっしゃってたんで、『どんなとこかな』と思って、遊びに来た感じです。
村上:それは、軽く、本当に遊びに来ようと思って?
大谷さん:軽くです。そこからずっと『面白いな』と思って、ずっと通いだしたんですね。その当時は、私、8歳ぐらいだったんですけど、8歳、9歳ぐらいだったんですけど、学校は、その当時、もうすでに行ってなかったので、未就学だったんで、何とかごまかしながら、未就学って別に言わず、そのときは通ってました。

たまたまこどもの里の前を通りかかった子どもの大谷さんは、この場所に惹きつけられる。「この辺かな」「どんなとこかな」「面白いな」と思って、「ずっと通いだした」のは、こどもの里の吸引力に惹きつけられる動きを表現しているだろう。

大谷さんは小学校に通っていなかったが、こどもの里に毎日通うようになる。大谷さんを取材した黒川祥子のルポルタージュによると、小学校に通っていないことを、大谷さんはなんとなく親に問いただすこともなく受け入れていたようだ(黒川祥子「西成群像 『無戸籍』の姉弟を追って」<『新潮45』2015年8月号>)。

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