――不動の遊撃手、そしてトップバッターだった石毛氏も田辺徳雄の台頭とともに三塁にコンバートされ、打順も6番を打つことが多くなる。ベテランになりチームの調整役になっていった。
ショートからサードになったのは1985年の日本シリーズで左翼と交錯して膝を痛めたのがきっかけで、森監督になったタイミングでコンバートされました。1994年の日本シリーズで西武が2勝4敗で負けると森監督が勇退することになった。それから球団代表に呼ばれて、監督をやれ、というオファーをいただきました。
それは確かにうれしかったけど、複雑な気持ちでもあった。引退が頭をよぎるような年齢になったときに、私がいるのに森監督が三塁にパグリアルーロっていうメジャーリーガーを連れてきた。この年齢になって競争しろっていうのか、みたいな反発もあった。それに大学、社会人を経て2000本安打を打った選手がいなかったから挑戦したかった。思いがいろいろ錯綜したんですが、結局、監督就任を断った。
工藤公康と同時にダイエーへFA宣言
そしてFA宣言をした。当時、根本陸夫さんはダイエーにおられて「お前が西武を出るとはなあ」と言われた。後日ご連絡をいただいて、ダイエーへの移籍が決まった。工藤公康と同時で、同じ球団に2人がFA移籍したのは初めてのことでした。
でも、ダイエーでの出場機会は減りました。私は入団してから14年間、ずっとシーズン100安打を打っていました。試合に出られない私は根本さんに「やめていいですか」と言ってひき止められたけど、2年目は開幕前に右太ももの肉離れをしたこともあって、さらに出場が減ってオフに構想外になりました。
――石毛氏は2000本安打まで167本を残す1833安打で現役を終えた。引退試合はなし。巨人のV9に匹敵する最強軍団、西武ライオンズのチームリーダーとしてはやや寂しい引き際ではあったが、一つの時代の終わりを感じさせた。
年俸も2億円までいただいて、いい思い出も作らせていただいた。40歳で現役を終えたのですが、野球に感謝しています。
(後編:「66歳の石毛宏典氏が失敗を包み隠さず明かすワケ」に続く)
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