故人のデジタル再現はタブーか、それとも救いか 令和時代に「デジタル故人」がいるべき場所は

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第1次世界大戦で弟を失ったヴェルナー・リーベルト(1892~1915)は戦地から両親に宛てて次のような手紙を残している。

<弟が最早いないということを知ってから、私の心の中に不思議な変化が起こりました。私は急に永遠の生命と来世での再会を信じるようになりました。(略)なぜなら、愛する人間から死によって永久に隔てられてしまうということはあり得ないからです。>
(岩波新書『ドイツ戦歿学生の手紙』より/編・ヴィットコップ、訳・高橋健二)

それまでの社会で育まれてきた方法ではとても対応できない。そんな死別が世の中にあふれたときに、新たな受け皿が求められるのだ。

日本でも、日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)の若者の死は個人墓を増やし、国のために命を捧げた英霊を奉る機運を高めた。未婚のまま命を落とした息子に花嫁人形を、娘には花婿人形を捧げる風習が広がったのも、日中戦争から続く第2次世界大戦(1937~1945年)の頃だと言われる。北東北にいるイタコは占いや家の守り神との対話など様々な仕事を請け負うが、なかでも降霊術 (口寄せ)にとりわけ注目が集まるようになったのも戦後まもなくだった。

そうした心情からの要請とは別に、技術の革新が新しい死の風習を生むこともある。

19世紀前半の写真の発明は、亡くなった家族を写真として残す「遺体記念写真(ポストモーテムフォトグラフィー)」や遺影の文化を誕生させた。遺体の腐敗を防ぐ「エンバーミング」はアメリカの南北戦争(1861〜1865年)を契機に広まり、葬儀を執り行う時間や距離的な猶予を劇的に伸ばした。

日本のお墓に関する文化やトレンドの多くも、近代的な火葬炉の普及なしには成立しなかっただろう。

伝統的な風習は急速な都市化をフォローしきれない

それを踏まえていまの世の中を見渡すと、大量の「受け入れがたい死」と新しい技術が横たわっていて、それを受け止める器がまだできていないことに気づく。

近年の「受け入れがたい死」といえば、世界規模では新型コロナ蔓延による死だろう。また、戦争や紛争、テロによる死、自らの手による死の拡大を思い浮かべる人もいるだろう。

それらに加えて無視できないのは、先進国を中心に何十年も前からじわじわと拡大している「受け入れる機会が少ない死」が確実に増えていることだ。

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