「食べるだけで精一杯」英国看護師が困窮する事情 前代未聞、待遇改善を求めてストライキを計画

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看護学部が人気だった理由は、授業料が無料で無償の奨学金が毎月5万円ほど支給されていたからだ。これは看護師を育成して確保することが国策とされ、予算確保も優先的にされていたためで、無償だからこそ競争が生まれ、優秀な看護学生を確保できた。

就職も厳しい競争にさらされ、完全な買い手市場だった。特に新卒看護師の就職は厳しく、大学を卒業して免許が取れてもしばらくは就職ができず、スーパーでアルバイトをしながら就職活動を続ける先輩たちを何人も見てきた。大学側もワークショップを開き、履歴書の書き方、面接の受け方などの訓練を学生に受けさせていた。

すべてが変わったのが2010年に発表された、リーマンショック以降の不況による公共部門の職員の賃上げ凍結だ。以降2年間は看護師の昇給はなく、その後は毎年1%の賃上げが決定された。この間のインフレ率は1%以上であり、年数が経つほど看護師の所得は目減りしていった。1%の賃上げは2017年まで続いた。

買い手市場が一転、看護師不足に

あれほど買い手市場であったのに、看護師不足になるまでそう時間はかからなかった。2013年を過ぎたあたりからEU各国から看護師を大量に受け入れ、なんとか看護師不足をしのいでいた。しかし2016年イギリスはEUを離脱。これにより、EU諸国の看護師は競うように母国に帰っていった。

とどめが2017年からの看護学生の授業料無料、ならびに奨学金の完全廃止だ。

これにより看護学生も他の学部生と同じように学費を支払うことになった。看護師育成のための礎ともいわれた授業料無償策に、国は手をつけてしまった。もはや看護師は主婦や低所得家庭の学生に進学と就職のチャンスを与える魅力的な仕事ではなくなり、看護学部を志願する学生は以降、減少の一途をたどる。

必然的に看護師のなり手も減少。コロナ医療従事者に「危険手当、ボーナスの支給なし」の国の決定も多くの看護師を退職に向かわせた。そして、これ以降、国の方針は待遇改善して看護師を増やすより、「この待遇でも志願してくる」外国人看護師のリクルートに舵は切られていった。

トラス首相を第2のマーガレット・サッチャーと呼ぶ人もいる。80年代に主に活躍したサッチャー首相は「公営から民営に」を公言し、実現していった首相だ。

コロナ以降、NHSの待機手術の待ち期間はさらに長くなり、プライベート病院での手術件数が増加している。統計ではウェールズではコロナ前に比べ、プライベート診療の患者数が114%となり、イングランド中部のミッドランド地方では76%の増加が記録されている。

私の勤務先でも、患者からプライベート医療に移るために紹介状を書いてほしいという依頼が増えたと感じる。これは国が意図したものか、結果的になったものかはわからないが、プライベート診療の増加は明らかだ。

看護師のストライキ投票の結果がわかるのは11月2日以降。投票に至った経緯を無視してはいけない。ストライキが実施されればイギリス医療が大打撃を受けることは必須で、政権に与えるダメージも小さくないだろう。
今までのイギリス首相とは違い、真摯にNHS医療と看護師の未来を考えてくれることを、トラス首相には期待したい。

ピネガー 由紀 イギリス正看護師、フリーランス医療通訳

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Yuki Pineger

日本での看護師免許や勉強経験はなくイギリス義務教育(GCSE)、高等教育A-levelを経てマンチェスター大学看護学部卒業。現在は、イギリス中部に在住してNHSの大学病院に勤務。通常は外科部門に所属して手術前後の患者看護に当たる傍ら、学生指導も担当している(2020年4月から新型コロナ感染病棟に期間未定で異動中)。

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