それだけに鹿児島で私学校の生徒らが暴挙に出たのは、大久保からすれば「十分考慮しているじゃないか」という怒りもあったことだろう。
鹿児島県で挙兵がなされたことを知ると、大久保は伊藤博文への手紙で、「もし、一戦を交えることになっても、向こうには何の大義名分もない」と書いている。さらにこんな趣旨のことを手紙では懸命に訴えた。
「天から見ても、のちの時代から見ても、また国外から見ても、その行いは言い訳のしようがない。不正を明らかに、正々堂々とその罪を挙げたうえで、鼓を打って討伐すれば、誰も文句を言うものはいないだろう」
なんだか必死である。人が雄弁になるとき、そこには後ろめたさや罪悪感がある。自分が生まれた育った故郷と一戦を交えることに対して「仕方がないことなんだ」と言い聞かせているように思える。
だからだろう。大久保はこんな過激な言葉も書き連ねて、余裕さをアピールしている。
「このような事態が生じたのは、まことに朝廷にとって不幸中の幸いで、ひそかに笑いを生じるくらいである」
西郷隆盛を最後まで信じていた大久保利通
この手紙を引き合いに出して、「盟友・西郷の決死の行動を冷笑する残酷な大久保」と決めつけられることがある。確かに、かつて大久保が自分の日記に「江藤の醜態は笑止である」と江藤新平をこき下ろしたときの筆致に似ている。
だが、大久保は当初、西郷が鹿児島士族の反乱に加わっているとは考えてなかった。それどころか、周囲にいくら忠告されても、信じなかったのである。内務省で大久保の側近だった千坂高雅は、こう証言している。
「大西郷を信じていたどころじゃない。いよいよ模様が危ないらしいのに、『西郷は大丈夫だ』と言っているので、すこぶる困ったものだ」
元薩摩藩士・高橋新吉も「人が何と言っても、あの男はそんな男じゃないと言って聞かなかった」と証言している。リアリストの大久保らしくない頑迷さだが、それだけ信じたくなかったのだろう。
「西郷はこの乱に加担するはずがない」という信頼のもと、大久保は伊藤への手紙でも「西郷は挙兵についてはまったく不同意」と断言。こんな見通しをつづった。
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