もし、あさひさんが「私はみじめになりたくないから友達が欲しいの。それだけなの。私がひとりでみじめにならないなら、どんな人でもいいの」と思っているのなら、僕の相談はここまでです。
お互いがお互いのことにまったく興味がないのに、ひとりになりたくないから友達のふりをしている人たちはいます。そういう人たちは、相手の話を聞かないで自分のことだけを話します。そして、心の深い所で相手に退屈していたり、バカにしていたりします。何人かで話していて、一人がトイレに行くと、すぐにその人の悪口が始まる集団は、そういう人たちが集まっているのです。
でも、別れないのは、ひとりはみじめで、さびしいと思っているからです。
ちなみに言うと、そういう恋人同士もいます。本当は相手のことをちっとも好きじゃないのに、さびしくて、恋人がいないと思われたらみじめだからつきあっている人たちです。
苦痛とみじめさを天秤にかける
僕は、そういう人を見るたびに、「そんな相手とつきあう苦痛」と「みじめでさびしいと思う気持ち」を天秤にかけます。
どういう意味かわかりますか? さびしさやみじめさから友達になった相手といると、本当の友達ではないですから苦痛を感じます。でも、もし、そういう関係がいやだと拒否して友達にならなかったら、みじめさやさびしさを感じます。
どっちを選んでも、マイナスの気持ちが生まれます。だったら、どっちのマイナスの気持ちのほうが大きいかを考えるのです。
あさひさんは、どっちの気持ちのほうが大きいですか?
どっちの気持ちのほうがいやですか?
えっ? そんなこと考えたこともない? では、考えてください。ゆっくりと。落ち着いて。自分はどっちがいやなのか。もちろん、パッと考えれば、どっちもいやです。でも、じっくり考えると、どっちのほうがよりいやか、微妙な違いを感じてきませんか?
究極の選択ですね。「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ」のどっちを選ぶのか。
「本当の友達とは思ってくれない人たちといつも一緒にいる」か「ひとりでお昼をたべたり教室を移動したりする」か。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら