大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史 「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

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1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

“大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。

大阪に串カツをもたらした男、松下義信氏と十三の「二カツ東京屋」(雑誌『食通 1936(昭和11)年7月号』P66より)

「二カツ東京屋」の名前の由来

梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

“深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

“大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

“伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

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