それから5年。1998年に大塚家具は再び業界に震撼をもたらす。「三越が新宿南館をたたみ、それを大塚家具に賃貸する」と報じられたからだ。小さな店からスタートした大塚家具が巨人と逆転劇を演じたあざやかな瞬間だった。
ただそこから10年を経て、2008年12月期決算では純損失を計上。2010年12月期まで純損失計上が続いた。その後、回復の傾向はあったものの、売上高はたとえば2003年の730億円にくらべて、2013年には562億円へと減少を続けた。
大塚家具の成長の要因とは何か
大塚家具の芳しくない状況を分析する前に、まず大塚家具が成した偉業について見ていこう。現状は苦戦しているように見えるが、少なくとも30年以上にわたって快進撃を続けた企業だ。流通の観点からすると、大塚家具は極めて興味深い取り組みを行った。
勝久氏は家具小売業で2つの発明をした。1つ目は、家具メーカーからの直接仕入れだった。考えれば当然のように、メーカーから直接仕入れれば中間マージンをなくせるため安価になる。さらに大量の製品を仕入れれば価格交渉にも有利になる。国内メーカーなら2~5割ほど安価になるし、輸入品なら半額になるケースも多い。実際に、当時、輸入品は現地価格の2~2.5倍が当たり前だったのに対し、大塚家具はそれを4割ほど削減できた。
メーカー直接取引は、家具業界の非常識だった。取引をそもそも始めるのに苦労したし、同業の圧力、ならびにメーカーからの門前払いもあった。地域にはさまざまなメーカーがおり、それを卸が強力な力で管理していた。当時としては、メーカーから直接仕入れて販売するのは革命的なことだった。
さらに通常の家具販売では、「売れ残ったものは返品する」という委託販売方式がメインだった。もちろん小売店のリスクは軽減する。代わりに、高価になる。勝久氏は、みずからの仕入れ眼を信じた。よいものを選別し、それを必ず販売できるとの自負から買い取りを選択したのだった。
直にメーカーの工場を視察し、相手を口説き、契約を締結して歩いた。当初は” OTSUKA”を知らない外国メーカーも、その販売実力を認め集まるようになってきた。
2つ目の発明は販売スタイルだ。通常、それは大塚家具の会員制ビジネスモデルと考えられている。それは半分正しく、半分は間違っている。その発明の本質とは、価格表示を実売価格にあわせた”大塚販売方式”だからだ。
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