オリックス、日本一を狙う「影の仕掛け人」 イチローがいた96年以来の快挙も夢じゃない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

今年は一軍だけで、二軍は宮古島を使った。第二球場が完成すれば一、二軍が一緒にキャンプを張れる。来年(2016年)は10人が同時に投げられるブルペンが新設される予定だ。そうなれば少なくとも「竹」にはなる。

どの練習施設も徒歩で移動でき、ファンは選手と間近に接することができる。日本一と言われる生目の杜に最も近いキャンプ施設である。それも必然。瀬戸山本部長はホークスタウン建設にも携わった人物なのである。

宮崎での春季キャンプを成功させた、オリックス瀬戸山隆三・球団本部長。「ソフトバンクに追いつき、追い越せ」だ

瀬戸山本部長は大阪市立大を卒業し、1977年にダイエー入社。

1988年の南海ホークス買収時から球団運営に携わった。1993年に球団代表となり、代表取締役専務を兼務した根本陸夫監督の下で、宮崎市と理想的なキャンプ地建設に向けての協議を続けた。

球団本部長を務めていた1997年に主力選手の脱税事件の責任を取って球団を離れたが、1999年4月30日の根本氏急逝を受けて球団代表として復帰。根本氏の遺志を継いでホークスタウン建設に尽力した。

皮肉なことに、アイビースタジアムが2002年12月に完成し、根本氏のアイデアがふんだんに取り入れられた生目の杜で2003年の秋季キャンプが行われたときにはダイエー退団が決まっていた。独断専行が目立った当時の球団社長と合わず、身を引いたのだ。2004年2月の本格的なホークスタウンのオープンを前に、いったん宮崎市との縁は切れた。

ダイエー退団後は福岡市のめんたいこ会社社長就任が決まっていたが、2004年に千葉ロッテマリーンズから誘われて球団代表に就任。2006年球団社長となり、2010年3月に清武町を吸収合併した宮崎市から、キャンプ地誘致があった。ロッテは2008年から石垣島キャンプを始めたばかりで受けられなかったが、魅力は感じていた。

次ページ清武町と瀬戸山氏、縁は再び結ばれた
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事