岸田政権「旧統一教会断絶宣言」重なる歴史の意味 日本人は「敵と味方」峻別してきたのか
宣教師のフランシスコ・ザビエルが来日し、日本国内で布教活動を開始したのは1549年。彼らの使命は全世界をキリスト教の国にすること。そのためには土着の宗教を改宗させ、一神教の神に帰依させる必要があった。一神教の神は絶対神だから、宣教が成功すれば宣教先の為政者の権威をも希薄化させることができる。
宣教師たちが目的を達成するために目をつけた武将が織田信長だった。信長は宣教師たちから軍事物資の提供を受ける代わりに両者の連携を約束する。イエズス会の援軍を得た信長は天下統一へと邁進することとなった。
ところが信長は本能寺の変に倒れてしまう。信長の意思を引き継いだのが豊臣秀吉だったが、秀吉政権の中枢には多くのキリスト教信徒が残った。彼らこそが「キリシタン大名」である。秀吉は、信長が引き入れたキリシタン大名たちをコントロールしながら政権運営することを余儀なくされたのだ。
しかし秀吉は、キリスト教が全国で広まることは統治に支障が出ると判断した。仏教と神道をベースにした統治体系を敷き直すために、キリスト教の力を削ごうと踏み切ったのがバテレン追放令である。
秀吉よりもさらに踏み込んだのが徳川家康だ。「踏み絵」を導入し、キリスト教拡大を徹底的に取り締まった。この時期、日本以外ではアジア、アフリカの多くの国々がキリスト教国家の植民地になっていたが、日本はそれを逃れ「パクス・トクガワーナ」とでも呼ぶべき太平の時代を送ることになる。
私は、徳川時代というのは一神教的ドグマから距離がおけた時代だったと考えている。
「敵と味方」を峻別する一神教の宗教観
ここで「現代の宣教師」とでも言うべき統一教会に目を向けてみる。
1954年に韓国で創立した旧統一教会が日本で布教活動をスタートさせたのは1958年。1964年には宗教法人格を取得し、4年後の1968年には政治団体「国際勝共連合」を立ち上げた。教祖・文鮮明は反共産主義という旗印を明確にすることで、岸信介元首相ら政界大物に食い込んでゆく。
1970年以降、文鮮明はアメリカにも進出し、ニクソン大統領以下、共和党系の政治家らと関係性を強めた。その時に掲げたのも、やはり反共産主義という旗印だった。
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