一方、田端駅南西側に広がる高台は「田端文士村」と呼ばれる別の顔を持っており、散策ルートとして人気がある。駅から谷田川通りにかけての、起伏が多い一帯だ。
1901年に画家の小杉放庵、1903年に陶芸家の板谷波山が田端に居を構えたのが発端といわれ、その後、室生犀星、芥川龍之介、菊池寛、堀辰雄、林芙美子、萩原朔太郎、竹久夢二、田河水泡、野口雨情、サトウハチローらといった、そうそうたる面々が田端に集まってきて、交流を持ち、刺激し合った。まさに日本の文化史上の壮観だ。
当時は交通が不便だった
ただ、山手線が電化され、上野―田端―池袋―品川―烏森(現在の新橋)間に電車が頻繁に運転されるようになったのは1909年になってから。非電化時代は東北、信越方面の長距離列車が片手間に田端に停車していたようなもので、交通至便とは言いがたかっただろう。
田端には都電もほかの私鉄も通らなかった。それなのに文化人が集まってきたのは、交通の不便さゆえだったからかもしれない。通信手段も限られていた時代である。遠くまで出かけずとも仲間が近くに集まっていたほうが、仕事にも何かと便利だった。日本橋や神田あたりの下町と違って家賃も安かったであろう。
農村だった高台がベッドタウン化したのは、1923年の関東大震災がきっかけだった。地盤が強固で、比較的被害が少なかったため注目された。山手線の電車が通じ、繁華街にもビジネス街にもすぐ行ける便利な土地になっていたことも後押しした。
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