かつては"気動車王国"、四国の今昔「名車列伝」 非電化の国鉄時代から現在の振り子列車まで

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気動車王国だった時代の四国の看板列車といえば急行だった。四国初の気動車による優等列車は、1958年11月に高松桟橋―松山間で運転を開始した準急「やしま」である。この列車は1960年に高松桟橋―宇和島間を走っていた準急「いよ」に統合。その後、1963年には高松―松山の列車が「いよ」、高松―宇和島間が「うわじま」の名となった。1966年3月に100km以上を走る準急がすべて急行に格上げされたことで、これらの列車も急行を名乗ることになった。一方、土讃線でもそれまでの準急列車が急行「土佐」に格上げされ、気動車による四国の急行ネットワークを確立した。

初の特急は、前述の通り1972年に登場した「しおかぜ」と「南風」だ。車両はキハ181系で、それまでに中央西線の木曽谷を走る「しなの」や奥羽本線板谷峠などの難所を越える「つばさ」などの山岳区間で乗車経験があったが、山岳路線である土讃線にはうってつけの車両と感じた。

キハ181系南風としおかぜ
四国初の特急列車、キハ181系の「しおかぜ」と「南風」(撮影:南正時)

「しおかぜ」「南風」はその後運転本数を増やし、1986年にはエル特急に仲間入りした。この年のダイヤ改正では国鉄が最後に開発した特急形車両キハ185系が投入された。民営化を控えて四国地区向けに製造された短編成で運用可能な車両で、JR化後には徳島線特急「剣山」、牟岐線特急「むろと」などが短編成で運転開始、ローカル特急の基礎を築いた。

宮脇俊三さんとの思い出

瀬戸大橋開通を翌年に控えた1987年には国鉄分割民営化によりJR四国が発足した。瀬戸大橋の開通は、それまで長らく本州と四国を結んできた鉄道連絡船、宇高連絡船の消滅も意味していた。

瀬戸大橋線の開業前に行われた岡山―高松間の試運転には各界の鉄道関係者が招待され、その中には作家の宮脇俊三先生の姿もあった。瀬戸大橋の乗車を楽しみ、坂出あたりで「南さん、帰りはどうします?キャンセルして宇高連絡船にしようと思うのですが……」。もちろん筆者は大賛成し、帰路は試乗会をキャンセルして宇高連絡船で最後の航海を楽しんだことも思い出のひとつである。

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