赤ちゃんポストに預けられた想定外の男の子の今 預けられた経緯は?実母は交通事故で死亡…
熊本県内では、2005年から2006年にかけて、乳児の置き去りや、出産後に放置して殺害する事件が相次いだ。
なぜ救えなかったのか。このまま何もしないでよいのか──。
産婦人科医で、当時の慈恵病院の理事長だった蓮田太二さん(2020年に死去)は考えた。ちょうど2004年にドイツの赤ちゃんポスト「ベビークラッペ」を視察したばかり。太二さんは「日本版赤ちゃんポストを作ろう」と決意し、2006年12月、ポスト設置のための施設の用途変更を市保健所に申し出た。
太二さんの長男で、現在の理事長・健(たけし)さんによると、病院がこだわったのが、親の「匿名性」だった。
「事件になるようなケースでは、妊娠・出産を『周りに絶対に知られたくない』という事情を抱えた人が多い。秘密を守り通すことで、赤ちゃんを殺したり遺棄したりせず、『預ける』という選択肢を作りたかった」
しかし、世間の反発は大きかった。「安易な子捨てを助長する」「子どもの出自を知る権利はどうなるんだ」──。当時の安倍首相も、記者団に「大変抵抗を感じる」と懸念を示していた。
それでも、翌2007年4月、熊本市は子どもの安全確保などを条件にポストの設置を許可した。この時、市長だった幸山政史さんは「ギリギリまで悩んだ。最後は『救われる命があるのなら』と、願いを込めて決断した」と話す。
ゆりかごは、小さな扉を開けると赤ちゃんを置けるようになっている。そこには「お父さんへ お母さんへ」という手紙も添えられ、悩みながらもここまで来てくれたことに感謝し、「秘密を守るので連絡をください」などと書かれているという。
開設は2007年5月10日。初年度に預けられたのは航一さんを含め17人にのぼった。
お好み焼き屋を営む夫妻のもとへ
航一さんは、病院から児童相談所(児相)に移された。その数カ月後、熊本市でお好み焼き店を営んでいた宮津美光さん、みどりさん夫妻の「里子」に迎えられた。
夫妻には5人の息子がいる。自分たちの子育てが一段落しつつあった2007年、「今度は里親になってみよう」と登録したところ、児相から「3歳ぐらいの子を預かってみませんか」と打診された。それが、航一さんだった。
3歳児と聞いて、美光さんは「そんな小さい子、大丈夫かな」と戸惑った。それでも、「かわいいに決まっとったい」というみどりさんに背中を押され、児相に赴いた。対面した瞬間、美光さんは「もう心配せんでええよ」と幼い航一さんをそっと膝の上に抱き上げていた。「天使がやってきた」と、夫妻は思ったという。