18世紀末から20世紀にかけて、世界の多くの国々でそれぞれの歴史的文脈にもとづいた市民革命が生起し、アリストクラシーの社会がメリトクラシーの社会へと転換を遂げることになった。すでに述べたように、日本の場合は、明治維新がその転換点となる。
さて、図のBの時期の長さがAの時期のそれに並んだ今日、新しい事態が日本社会を覆いはじめている。端的に言うなら、150年続いたメリトクラシーの世の中が大きく変質しはじめているように見受けられるのである。
メリトクラシーの究極の形がペアレントクラシー
その変化の内実をなすのが、ペアレントクラシーへの移行だと表現することができる。フィリップ・ブラウンによれば、ペアレントクラシーは次のように定式化できる。
選択(Choice)=富(Wealth)+ 願望(Wishes)
21世紀を迎えた今日の先進諸国では、人々の人生は選択に基礎づけられたものとなっている。その選択に決定的な役割を有するのが、親(家庭)が所有している種々の「富」と、子どもの教育・人生に寄せる「願望」だというのである。
ペアレントクラシーには、理念としての側面と実態としての側面があることに注意されたい。「理念としての側面」とは、親の選択の自由を最大限に尊重しようとする政治的スタンスのことで、今日の新自由主義的教育改革の底流をなすものである。この側面が公教育の「解体」をもたらしつつあると見ることもできる。
他方、「実態としての側面」が、親ガチャという言葉で形容される、子ども・若者の間で見られる各種の「格差」の現状である。
筆者の考えるところ、ペアレントクラシーは、メリトクラシーの次に来る新たな時代というわけでもない。かつてヤングが警鐘を鳴らしたように、メリトクラシーの原理をつきつめるなら、その究極の形としてペアレントクラシーが立ち現れると考えた方が真実に近いように思われる。
「個人の能力と努力こそが大事だ」というメリトクラシーの理念は、近代社会を動かす機関車としての役割を果たしたと言っても過言ではない。ある時期たしかにメリトクラシーは、社会の進歩・発展のカギを握るものだとみなされていた。ただし、それはメリトクラシーが持つ光の部分である。
モノには必ず表と裏の両面がある。ヤングが強調したのは、メリトクラシーがもつ影の部分の方であった。すなわち、彼がその主著『メリトクラシー』(原著1958年)という未来小説で描いたのは、能力原理による階級対立が顕著になった分断国家の姿であった。
ヘタをすると、メリトクラシーの発展型としてのペアレントクラシーの社会は、かつての前近代社会のような、不平等と差別に満ちた社会に成り下がってしまうかもしれないのである。
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