明治の"熱海への足"は人が押す「人車鉄道」だった 国木田独歩も乗車、ラッパを吹きながら走る

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では、人車時代の東京から湯河原・熱海への旅とは、どのようなものだったのだろうか。その様子は、明治の文豪・国木田独歩の短編『湯ヶ原ゆき』によく描かれている。同作は1901年6月に、主人公(独歩)が「親類の義母」とともに、病気療養のために湯河原へ向かった道中の体験を元にした紀行文的な作品である。

その旅程を追いかけてみると、午前中に新宿の停車場で国府津までの切符を購入し、品川へ移動。品川駅のプラットホームで1時間以上待ち、新橋から来た神戸行きの列車に乗り込む。ほぼ同時期の1904年版の時刻表を見ると、独歩らが乗車したのは12時42分品川駅発の鈍行列車であることがわかる。

興味深いのは、登場人物が交わす会話である。蒲田を過ぎる辺りでは、「田植が盛んですね」という会話が見られ、東京市近郊(当時は荏原郡蒲田村)であっても、車窓にはのどかな風景が広がっていたことがわかる。

また、「横濱に寄らないだけ未だ可う御座いますね」という主人公の一言にも注目すべきだ。従来、東京方面からの列車は必ず横浜駅(現・桜木町駅)に入線後、スイッチバックして国府津方面に向かっていたのが、この旅の時点では神奈川駅(廃駅)―程ヶ谷駅(現・保土ヶ谷駅)間を結ぶ短絡線経由(短絡線上に1901年に開設された平沼駅経由)の列車が増えていたことを示している。1904年版時刻表を見ると、横浜駅経由と平沼駅経由の列車が混在している。

ラッパを吹きながら車夫が押す

さて、独歩が乗った列車が国府津駅に到着するのは15時01分であり、同駅で湯本行きの電車へと乗り換える。小田原馬車鉄道は1900年に電化され、旅行の時点では、すでに小田原電気鉄道になっていた。

「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」と刻まれた石柱(筆者撮影)

小田原電鉄の電車は、国府津駅を発つと酒匂川を渡って小田原の市街地へ入り、現在の国道1号線上を進んで、小田原城の南西に位置する早川口へと進む。この早川口こそが、人車・軽便鉄道の小田原駅があった場所であり、湯河原・熱海方面に向かう湯治客は、ここで再び乗り換えたのだ。

さて、いよいよここからが人車鉄道の旅である。1904年の人車鉄道の時刻表を見ると、熱海―小田原間は1日6往復。独歩が乗車したのは、小田原16時発の最終便であろう。

『湯ヶ原ゆき』の中で独歩は、小田原駅を発車した人車の様子を「先ず二台の三等車、次に二等車が一台、此三台が一列になってゴロゴロと停車場を出て、暫時くは小田原の場末の家立の間を上には人が押し下には車が走り、走る時は喇叭(ラッパ)を吹いて進んだ」と描写している。車夫は豆腐屋が吹くようなラッパをプープー吹きながら人車を走らせたのだ。

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