明治の"熱海への足"は人が押す「人車鉄道」だった 国木田独歩も乗車、ラッパを吹きながら走る

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では、この人車鉄道の車両とはどのようなものだったのだろうか。手がかりを探すために、実寸大で人車鉄道の客車を再現・展示している「離れの宿 星ヶ山」(小田原市根府川)のオーナー、内田昭光さんを訪ねた。

内田さんによると、展示車両は「人車鉄道のレール幅は61cm。これを基準に、写真などを参考にして車両の長さや高さを割り出して再現した」といい、敷地内に敷設されているレール上を実際に動かすこともできる。押してみると、乗客が乗っていない状態にもかかわらず木造の車両はずっしりと重く、平地ならともかく、乗客が乗ったこの車両を上り坂で押し上げるのは、相当な重労働だったはずである。

「離れの宿 星ヶ山」に再現・展示されている人車鉄道車両(筆者撮影)

一方で、下り坂に差し掛かると車夫は、車両の前後に付いたステップに飛び乗り、ブレーキをかけながら駆け下った。貧弱なレール上で、車幅の割に背が高くてバランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、後述するような脱線・転覆事故も起きた。

興味を引かれたのは、内田さん所蔵の1等車(上等車)の写真である。車体側面には、「上等」の文字とともに「FIRST」という英字も併記されている。1等車は外国人の利用が多かったためであろう。また、車内をよく見ると、「西陣織ではないか」(内田さん)という豪華な織物で壁が飾られている。建設費が安上がりであるという理由から採用された人車であったが、さすがに1等車にはお金をかけていたようだ。

「すりかえ」と呼ばれた交換駅

さて、小田原から熱海までの人車鉄道の旅はどのようなものだったのか、そのルートをたどりながら見ていこう。

小田原を出た人車は、打倒平家の旗揚げをした源頼朝と坂東平氏の大庭景親が対陣した古戦場・石橋山のふもとをかすめるように進み、およそ30分で小田原から約4kmの米神駅に到着する。

1920年頃に撮影されたと思われる小田原市石橋付近。中央では省線熱海線の橋梁建設が進んでおり、左端には石橋駅(軽便時代に設置)に停車中の軽便の機関車が写っている(写真:大浜保彦氏提供)

米神駅は、熱海から来る人車との最初のすれ違い場所でもあり、こうした交換駅を当時は「すりかえ」と呼んだという。ちなみに、米神漁港といえば、ブリ定置網漁が全国的に有名で、昭和30年代には日本一と称された。

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