もちろん西郷が辞めることを見越し、大久保は対策をとっていた。西郷が辞表を出すと、政府はすぐさま朝命として次のような命令を下している。
「陸軍の将兵および兵卒は東京に留まること」
だが、それにもかかわらず、桐野利秋をはじめ数百名の将校や兵卒、そして諸院省の役人たちが、西郷と一緒に鹿児島に帰国。政府の命令は公然と無視されて、しかもそれに対して明治政府は処罰さえしていない。反政府の勢力のほうが、政府よりも力を持ちつつあった。
大久保は薩摩出身でありながら、まるで独立国のように振る舞う薩摩と敵対しなければならなくなった。長く苦楽をともにした長州の木戸孝允も、このころすでに病床におり、頼ることはできない。
明治政府のトップに上り詰めながらも、大久保の胸は寂寥感でいっぱいだったのではないだろうか。
大久保利通が恐れたのは反政府勢力の反乱
孤独な権力者は、すべてを自分の統治下に置こうとする。だからこそ、大久保は内務省を創設して、自らそのトップに就いた。
内務省の守備範囲は、あまりにも広い。地方行政、民生、勧業、治安、土木、交通通信などまで含んでいる。現在でいえば、多くの省庁の業務を、1つの省がコントロール下に置くという形だ。しかも大久保は警察機構まで内務省下に置いて、信頼する部下の川路利良に首都警察を任せている。
孤立した大久保が何より恐れたのは、反明治政府の勢力が結託して反乱を起こすこと。かつて自分たち薩摩藩が長州藩と手を結び、江戸幕府に立ちむかったことを、大久保は嫌でも思い出したことだろう。今度は自分が政権を守る側だ。攻め手となる反政府の勢力はできるだけバラバラのうちに、1つずつたたいておかなければならない。
大久保がそんな悲愴な決意を固めていたときのことだ。佐賀で不平士族が反旗を翻そうとしているという情報をキャッチする。
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