源義経を陥れた「梶原景時」を源頼朝が信頼した訳 「逆櫓論争」でもわかる冷静で用意周到な実像
ちなみに、景時は相模国の豪族。頼朝挙兵時(1180年)においては、平家方に味方し、頼朝を討つ側にあったといわれるが、『吾妻鏡』には、石橋山合戦に敗戦し、山中に潜む頼朝を、情を持って助けたとある。
しかし、『愚管抄』(鎌倉時代初期の僧侶・慈円の史論書)には「治承4(1180)年より事を起して打出けるには。梶原平三景時。土肥次郎実平。舅の伊豆の北條四郎時政」との記述も見え、景時は当初より、頼朝方として参戦していた可能性も高い。
『吾妻鏡』において、景時は「文筆に携わらずといえども言語を巧みにするの士なり」と評され、弁舌が巧みだったようだ。が、話だけがうまい使えない者ではなく、大豪族・上総広常を双六の最中に殺害するなど豪胆な仕事人でもあった。
また、木曽義仲を討ち取った合戦の際、景時は敵方の武将の死者と討ち取った者の名前などの詳細を記したものを頼朝に進上しており、その緻密さ、手際のよさに頼朝も感心したという。機転のきく武将だったようだ。
義経と景時の考え方の違い
話を戻すが、その景時が「このたびの合戦では、舟に逆櫓を立てたい」と軍議で言葉を挟んだのである。
義経が「逆櫓とは何か」と問うと「馬を駆けさせるときは、左でも右でも容易に向けることができます。しかし、舟は素早く押し戻すことは困難。艫(とも、船尾)と舳(じく、船首)に櫓を互いに立て、脇舵を取り付け、どちらにでも簡単に押せるようにするのです」と返答する。しかし義経は「戦は一歩も退くまいと思っても、戦況が悪化すれば退くことはつねにあること。
初めから逃げ支度をしては、よいことはない。逆櫓を立てようと、返様櫓を立てようと、そなたは好きにすればよい。私は櫓1つで十分だ」と反論する。さらに、景時が「いい将軍は、駆けるべきときに駆け、退くべきときには退いて、身の安全を守るもの。攻める考えしかないのは、猪武者に同じ」と皮肉を言ったので、義経は「猪か鹿かは知らぬが、戦いはただひたすら攻めて勝つのが心地よい」と言い放つ(『平家物語』)。
周りにいた武士たちは、景時を恐れて大声で笑うことはなかったが、目を見合わせつつ、嘲笑したという。そして「義経と景時がいずれ同士討ちするだろう」と言い合った、と『平家物語』には記されている。
逆櫓論争として有名なものだが、当時、景時は播磨国の惣追捕使であり、義経軍には参加していなかったと思われる。よって、この逆櫓論争は『平家物語』の虚構であろう。
しかし、あえてこの逸話を正面から捉えて考えてみたとき、義経や景時を笑った武士たちは「猪武者(状況を考えないで突進する武士)」ということができるのではないか。景時というと、義経を頼朝に讒言(ざんげん、虚偽の内容を目上の人に伝えて陥れること)した人物として悪名高いが、諸書を見ていくと、冷静で用意周到な武将という側面が見えてくる。
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