源義経を陥れた「梶原景時」を源頼朝が信頼した訳 「逆櫓論争」でもわかる冷静で用意周到な実像
一方、元暦元(1184)年8月8日、源範頼(義経の異母兄)は1000騎の軍勢を率い、鎌倉を出た。足利義廉、北条義時、土肥実平、和田義盛、佐々木盛綱など有力武士を伴っての出陣であった。
範頼は、同月27日に入京。朝廷から追討使に任じられ(29日)、9月2日、西国に下向する。備前国の藤戸(倉敷市)で平家軍と対陣した源氏方は「平家の舟に乗りうつり、乗りうつり、喊声を上げて」(『平家物語』)、攻め戦った。平家も次々に矢を射かけたが、源氏の兵はそれをものともせず攻め込んでくる。
源氏の猛攻の前に、平家は屋島へ退却。しかし、源氏には舟がなくそれ以上は追撃できなかった。範頼軍は屋島には向わず、安芸・周防・長門などを進軍するも「兵糧が欠乏」したために、将兵の中で不和が生じ、大半は東国を恋い、帰国したいと思う有様となった(『吾妻鏡』)。乗馬と兵糧米の支給を願い出た範頼に、頼朝は兵糧米を積んだ兵船の輸送を約束、あわせて九州の武士を動員し、四国の平家を包囲するよう命じる。
元暦2(1185)年1月、長門国赤間関に到着した範頼は兵船などの不足で九州に渡ることができなかったが、豊後国の臼杵惟隆、緒方惟栄から兵船の提供を受けて、豊後に渡ることができた。2月上旬には平家の有力家人・原田種直を討ち、平家討伐に向けて弾みをつける。頼朝は範頼に平家攻略を一任していたと言えよう。
「逆櫓を立てたい」と提案した梶原景時
一方、義経は1月8日に後白河院に対し、平家を討つための出陣の許可を乞う。公家の中には、都が手薄になると反対する声もあったが、「頼朝は自ら出陣せず、郎従を平家追討に派遣してきたが、それも実があがっていない。ここは義経を遣わして雌雄を決するべきでは」(藤原経房『吉記』)との声もあり、最終的には後白河院の許可を得て、義経は出陣することとなる。
義経は、摂津国渡辺にて舟を揃えて、屋島に攻め寄せようとした。2月16日、いよいよ出立かという時になって、激風が吹き荒れ、舟が破損。船出は延期される。そのころ、諸将はより集まり、「われわれは船戦のやり方を知らない。どうしたらよいか」と頭を悩ませていた。
そこに頼朝側近の武将・梶原景時が「このたびの合戦では、舟に逆櫓を立てたい」と言葉を挟むのである。
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