明治政府の中枢、西郷隆盛でも制御不能な男の正体 大久保利通と朝鮮使節派遣での対立に至る背景

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そんなわがままな久光など放っておけばよいとも思うが、大久保や西郷など、政府首脳の出身県で、反政府の動きが出ると、世情も不安定になる。久光は側近を相手に、こう言ってはばからなかった。

「西郷や桂(小五郎、木戸孝允)は島津家への恩義を知らない不忠者だ」

口だけならばよいが、具体的には、同じく政府への不満を持つ、中川宮と久光が連携すると厄介なことになる。

また、久光は廃藩置県だけではなく、明治政府の欧化政策にも強い不満を持っていた。攘夷を打ち出して倒幕した明治政府からすれば、その点はあまり突かれたくない。久光への共感が広がり、立ち上がったばかりの明治政府への批判が高まるのは、避けたかった。

そんな久光の揺さぶりに動揺した桂は、薩摩藩士の高崎五六や高崎正風といった久光派の人材を政府に出仕させて、政府への不満をやわらげようとした。薩摩藩士の伊地知貞馨や奈良原繁を県庁に引き入れたのも、同じ狙いである。

大久保と西郷の罷免を要求した久光

西郷も久光の機嫌をとろうと、西国巡幸というかたちで、明治天皇を鹿児島県に向かわせている。あの手この手で、懐柔しようとしたが、久光は一向に、明治政府に従おうとはしない。

西郷が実現させた天皇の鹿児島行幸も、結局、天皇に久光が物申す機会を与えると危険なので、一度拝謁させただけ。意見を言わせてもらえずに、かえって久光の不満は高まっている。

さらに、久光は西郷ら旧臣が鹿児島にいながらも、あいさつに来ないことに激怒。天皇が鹿児島滞在中に、久光は「14カ条の建白書」を書きあげて、宮内卿に提出している。

そこでは、大久保と西郷の罷免要求がなされていたというから、メチャクチャである。建白書には次のような要求がつづられていた。

「西郷や大久保を罷免しなければ、中央政府が求めてきた自身の上京は承諾しない」

そうして、暴走列車さながらに暴れまわった久光。西郷は謝罪に追い込まれて、鹿児島へと赴く羽目になる。そこで叱責を受けたことは言うまでもない。藩の許可なく高位高官に就いたことなどを激しく責められている。

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