財政健全化論こそが「無責任の極み」である理由 増税は「財源の確保」ではなく「財源の破壊」だ

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言うまでもないが、「財源」とは、貨幣のことである。

増税論は、政府が、課税によって、民間が保有する貨幣(日本であれば「円」)を徴収し、財源とすることをイメージしている。

しかし、この議論には、難点がある。それは、そもそも民間が保有する「円」は、いったいどこから来たのかという素朴な問題だ。

言うまでもなく、日本国(日本政府と日本銀行)は「円」を発行できる。ならば、日本政府は、どうして自ら発行できる「円」をわざわざ民間から徴収しなければならないのか。自ら発行して、財源に充てればよいではないか。

そんな理屈は、責任ある財源論とは言えない?

ならば、もう少し根本から論じてみよう。

「信用貨幣論」では貨幣とは「負債」である

財源とは、貨幣である。

では、そもそも「貨幣」とは何か。

詳しくは『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』でわかりやすく解説したが、貨幣とは「負債(借用書)の特殊な一形式」である。これが正しい貨幣理解であり、「信用貨幣論」と呼ばれている。

信用貨幣論によれば、民間銀行は、貨幣を創造することができる。すなわち、民間銀行は、貸し出しを行うことによって、預金(負債)という貨幣(預金通貨)を生み出すのである。これを「信用創造」と言う。

一般には、民間銀行は、企業や家計から預金を集めて、それを又貸ししているものと信じられている。

しかし、それは誤解である。実際には、民間銀行は、企業等に貸し出しを行うことで、預金という通貨(預金通貨)を生み出している。

例えば、銀行Aは、1000万円を借りたいという企業Bに対して貸し出す際、手元の預金から1000万円を企業Bに又貸しするのではない。単に企業Bの口座に1000万円と記録するだけだ。その瞬間に、1000万円という預金、すなわち貨幣が創造されるのである。

そして、企業Bが収益を得て、借りた1000万円を銀行Aに返済すると、1000万円という貨幣は消滅する。

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