財政健全化論こそが「無責任の極み」である理由 増税は「財源の確保」ではなく「財源の破壊」だ
したがって、次のように言える。
① 政府は支出するために、あらかじめ徴税による財源の確保を必要としない。その反対に、政府の支出が、徴税より先なのだ。政府の支出によって民間部門に貨幣が供給され、それが課税によって徴収されるという順番である。
② 政府が債務を負って支出することで、貨幣が「創造」され、民間部門における貨幣が増える。政府が課税し債務を返済することで、貨幣は「破壊」され、民間部門における貨幣は減少する。すなわち、財政赤字の拡大とは貨幣供給の増大であり、財政健全化とは貨幣供給の減少である。
このように貨幣循環の過程を理解すると、「財源確保のためには、増税が必要だ」という議論がいかに間違っているかがはっきりするだろう。
貨幣は課税を通じて「破壊」される。したがって、増税は「財源の確保」ではなく、その反対に、「財源の破壊」にほかならない。
財源の確保とは、貨幣の確保である。その貨幣は、政府が債務を負うことで創造される。しかも、政府の債務(自国通貨建て)は、企業や家計の債務とは異なり、返済不能になることはないのだ。
さらに言えば、政府が債務を負うためには、はじめに政府の資金需要がなければならない。すなわち、貨幣の創造の出発点には、政府の需要がある。
要するに、財源(貨幣)を確保しないと、政府は歳出できないのではなく、政府が歳出を需要することで、財源(貨幣)が確保されるのだ。
したがって、「政府は財源を確保するために、財政赤字を拡大せよ」
これこそが、「責任ある財源論」というものである。
「貨幣循環理論」でも同様の理解
なお、以上の議論は、昨今話題のMMT(現代貨幣理論)に限ったものではなく、例えば「貨幣循環理論(monetary circuit theory)」なども同様の理解である。
正しい貨幣論である「信用貨幣論」から出発すれば、おおむね、このような理解になるのだ。
いずれにせよ、「責任ある財源論」が必要だというならば、貨幣の本質を理解することを先送りすべきではないだろう。
貨幣とは何かも知らず、MMT(現代貨幣理論)と聞いただけで耳をふさぎ、国民に負担を強いるのが「責任ある議論」だと勘違いして、増税によって財源を破壊しようとする財政健全化論こそが、無責任の極みなのである。
なお、財政健全化論者の驚くべき無責任ぶりについては、『楽しく読むだけでアタマがキレッキレになる奇跡の経済教室【大論争編】』でわかりやすく解説したので、あわせて参考にされたい。
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