教師の「2人組を作って」が生徒の心に傷残す理由 友達付き合いが苦手な生徒に寄り添えぬ大問題
集団から孤立していると、自分自身の基準を作る情報インプットが少ない状態となります。「こうした問題はよく起こることなのか」「自分だけがこの苦痛を感じているんじゃないか」といったことの正誤がわからず、情報が少ない中での思考は自分の心理を落ち込ませていきます。
人を遊びに誘って、相手に断られたとします。相手はたまたま忙しくて断ったかもしれないのですが「自分は何もうまくいったためしがない。誰も僕なんかとつるんでくれない。もう生涯孤独で、寂しい人生を送るんだ」といった思考をしてしまうのが一般化のしすぎです。
このような思考の癖を持っている自分に気づけば、断られたことに対して一時的にはがっかりしても、致命的に傷つくことはありません。
「一般化のしすぎ」2つのパターン
「一般化のしすぎ」は、さらに次の2つのパターンもあります。
学校の先生にものスゴく怒られる。→「人間なんてこんなものだ。残酷で俺の気持ちなんてわからないんだ」
このとき、怒られた理由ではなく、行為そのものにのみ目が向いており、直近で自分に対して攻撃的だった人などほとんどいなかったという事実を見過ごしています。
直近で自分に対して攻撃的だった人がほとんどいなかったことに着目すれば、むしろそれは誇るべきことですらあります。また、ほかの人も自分と同様に悪く言われている場面は見なかったでしょうか。
怒られたことにショックを覚えるかもしれませんが、その理由となった本来の事象に目を向け、根本的な解決策を考えることが必要です。
取るに足らない小さなミスをした際に、「もう完全にダメだ、自分は敗北者で価値のない人間だ」と思ってしまう。
「完全」ということは現実にはなかなか存在せず、ある人が「完全に優れている」、自分が「全面的に落伍者である」といった考え方は非現実的です。多くの物事は、一部はある程度当てはまっても、一部はそうでもないというグラデーション的に成り立っています。
私のインターネットでの発信活動では、ありがたいことに多くの方から「共感をした」といった意見をもらうのですが、そうした人の内面や環境もさまざまです。
人付き合いは得意だけど何となく寂しさを抱えている人、彼氏彼女との関係に悩んでいる人、学校に友達はいるけどメンタルが弱い人、学校に行けず不登校になっている人など、一概に「陰キャ」という言葉で片づけることが難しい、さまざまなグラデーションの人が共感してくださっているというのが、私の観測です。
普段、人との関わりが少ないと、人付き合いや学校・社会生活が自分より充実している人たちをまとめて「敵」のように捉えてしまう節があるかもしれません。
しかし、一見充実していそうな人たちにも、それぞれに得意不得意があり、おのおのの立場における悩みだってあるでしょう。決して、自分だけが充実していない、自分だけがつらいわけではないのです。こうしたグラデーションは、たくさんの次元で、連続的に存在しているものであり、人間においても上だとか下だとかを決められるものではないのです。
現実はデジタルに0と1で二分化できるものではないことを念頭に置き、絶対的な答え・思い込みをなくしていけると、自分のポジション・すべきことなどを適切に考えやすくなると思います。
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