政界も巻き込んだ、日本の鉄道「線路の幅」大論争 「狭軌」か「広軌」か、新幹線実現に至る道のり
しかし、その後の戦況の悪化により工事資材および要員の確保が難しくなり、弾丸列車計画は全面延期のやむなきに至った。
こうして弾丸列車は計画それ自体は頓挫したものの、「この計画の内容、とりわけ東京―大阪間はほんの一部を除いて、戦後の新幹線とそっくり同じ」(『新幹線を航空機に変えた男たち 超高速化50年の奇跡』前間孝則)であったことから、東海道新幹線建設に当たっては、その資産が大いに役に立つことになる。新丹那トンネル、日本坂トンネルが新幹線トンネルとして利用されたほか、買収が完了していた用地(東京―大阪間515.4kmのうちの約95km分)を転用できたことから、東海道新幹線は、その計画の壮大さにもかかわらず、着工から5年半という短期間での建設が可能になったのだ。
さらに人的な面でも、島安次郎の長男で、蒸気機関車の名車「D51形」(デゴイチ)等の設計を手がけ、後に東海道新幹線計画を推進し、「新幹線の生みの親」とも言われる島秀雄(国鉄理事・技師長)も、技術者として関与していた。
戦後も続いた軌間問題
時は移り、戦後10年あまりが経過した1956年5月、輸送量が限界に達していた東海道線の線路増設を検討するために国鉄本社に「東海道線増強調査会」(以下、増強調査会)が設置された。この調査会は、実質的には広軌新幹線建設に向けての調査会の意味合いを帯びていた。
というのも、前年5月に国鉄総裁に就任した十河(そごう)信二は、かねて広軌新幹線構想を温めていた。十河は、若き鉄道官僚時代に鉄道院総裁・後藤新平の薫陶を受け、島安次郎らとともに広軌化の実現計画を考案したことがあった。「終生、後藤新平を恩師と慕い続けた」(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉)十河にとって、70歳を過ぎて巡ってきた国鉄総裁の座は、恩師・後藤新平の果たせなかった鉄道広軌化の夢を実現し、恩を返す千載一遇のチャンスだったのである。このように十河の肝いりで設置された増強調査会の委員長には、島秀雄が就任した。
このように、調査会は最初から「広軌」新線敷設を念頭に置いたものだったものの、巨大な官僚組織であり前例主義を取る国鉄内の調整には、とにかく慎重を期す必要があった。そこで、
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